このウェブサイトはお使いのブラウザーに対応しておりません。Edge, Chrome, Safari, Firefoxのいずれかで再度お試しください。

COMMUNITY

暮らしを真ん中に、寄り添いながら育っていく / 中島デコさん

千葉県いすみ市でBROWN'S FIELD(ブラウンズ・フィールド)を主宰するマクロビオテック料理家の中島デコさん。デコさん一家と寝食を共にするスタッフたちがひとつの大きな家族として、持続可能で、自然に寄り添った暮らしを営んでいます。いつも暮らしを真ん中に置き、人や自然が有機的につながりあって広がってきたブラウンズフィールド。ここに至るまでの道のり、共同生活のこと、これから思い描く未来のことなど、デコさんの思いを語っていただきました。 ―東京を離れ、導かれるようにいすみへ まだ末っ子が歩き始めたばかりの1999年、私と夫は5人の子どもたちと2匹の犬を連れて、東京から千葉県いすみ市に引っ越してきました。何でもお金で解決する都市社会の仕組みに疑問がありましたし、土に触れ、自分たちが育てた季節のものを新鮮なうちにいただくような生活をしたいという思いが強かったんです。私が若い時から実践しているマクロビオティックには、「身土不二」(人間と土は一体で、暮らす土地で採れた旬のものを食べる)という考え方があります。それは、まさに私の思い描いていた形でした。そして、実践できる土地を探し始めたところ、たまたま空き家となっていた古民家を紹介してもらった場所がいすみ市だったんです。本当はもっと水がきれいで、温泉が近くにあるような場所を思い描いていたんですけれどね(笑)。 でも実際にいすみを訪れたら、平地で、海が近くて、日当たりが良くて、すごく気持ちがいい場所で。偶然にも父親のお墓が近くにあったこともあり、なんだか呼ばれているような気がして、すぐに引越しを決めました。あれから24年。東京に帰りたいと思ったことは一度もありません。種を播いて、育て、収穫したものを加工して食べる。そんな暮らしを目指して、子育てと農作業中心の日々が始まりました。私は東京生まれ東京育ちで農の経験はなかったし、まずは小松菜だけでも、大根だけでも採れたらいいな、そんなところからのスタートでした。 (写真)ブラウンズフィールド内にある「ライステラスカフェ」 ―時の流れとともに、少しずつ形を変えてきたブラウンズフィールド 料理研究家としていすみの暮らしを本やメディアで紹介する機会があったことで、いつからかいろんな人が訪ねてくるようになりました。せっかく来てくださっているしと、お話したり、ごはんを出したりしていたんですが、その間作業は止まってしまうわけです。これはなんとかしないとということで、納屋をリフォームして、金土日だけオープンするカフェを開くことにしました。マクロビオティックの教えに基づき、メニューは肉や魚、卵、乳製品、白砂糖、添加物を使用せず、自家製調味料で旬の野菜と穀物を使ったものに。その考えに共感してくださるお客さんがだんだんと増え、手が回らなくなってきたので、今は私の想いを繋いでくれている若いスタッフたちに任せています。 (写真)これまでのデコさんの書籍 さらに、農業体験と交流を目的とする「WWOOF」のメンバーを受け入れたことがきっかけとなり、ここへ学びにくる人、遊びにきた人が宿泊できる施設「慈慈の邸(じじのいえ)」を作りました。「WWOOF」の受け入れをやめた後も、ブラウンズフィールドの一員として私たちと寝食を共にしながら働くという制度は続いています。現在は農、カフェ、宿泊、イベント、物販、母屋など、それぞれの係の分業制になっていて、期間も短期、中期、長期と様々な形態のスタッフがいます。今はこのような形に落ち着いていますけど、その時にいるスタッフによってルールが変わることもあります。引っ越してきた時から、漠然といろんな人が出入りする風通しのいい場所になったらいいなとは考えていたのですが、明確な構想が最初からあったわけではありません。長い年月をかけて、自然と少しずつ今の形になってきたんです。 そうそう、うちのカフェは廃棄が出ないんですよ。もしお客さんが来なかったとしてもスタッフの食事としていただくことができますし、売り切れたとしてもそれはそれで嬉しいこと。料理に使った煮汁、出汁、ドレッシングの余りなんかも全てまかない用にリメイクしています。スタッフがたくさんいてくれるからこそ、廃棄ゼロが実現できる。これって気持ちのいい循環だなと思うんです。(写真)ブラウンズウィールドの農隊が中心になり育てている田んぼ。カフェ、宿泊、賄い、麹の1年分のお米を作っている。 (写真)ワークショップスペース「サグラダコミンカ」にある竈門(かまど)。玄米を1日浸水させてから薪で丁寧に炊いている。 ―笑顔で挨拶ができるように、自分のコンディションは自分で整える 様々なバックグラウンドを持つ人が集った生活ですから、もちろん色々なことがあります。お互いをリスペクトして、労り合わないと共同生活は成り立ちません。すごく基本的なことですが、大事なのは “ほうれんそう”、報告・連絡・相談です。私たちは、毎日ごはんを一緒にいただきながら、「おいしいね」とか「今日どうだった?」とか、お互いの状況を話したり聞いたりしています。人間ですから、落ち込むことがあるのは当然のこと。だけど、誰かひとりでも沈んでいると、全体のエネルギーも下がってしまう。だから、笑顔で挨拶ができるように自分のコンディションを自分で整えるという作業は、共同生活においてとっても必要なことなんです。 たとえば、今みんなの前で笑顔でいられないと思ったらひとりで散歩に行くとか、読書するとか、自分のご機嫌を自分でとって立ち直るためのケアをする。そうすることで、自分だけではなく、みんなが気持ちよく過ごすことができます。つまり、他の人を尊重することにもつながるんですね。もちろん自分だけで抱えずに誰かに話したり、相談したりしてもいい。共に暮らしているとお互い様々な部分が見えますけれど、その分つらいことは分け合えるし、楽しいことは二乗、三乗にもなるのです。(写真)宿泊施設「慈慈の邸」で働くスタッフ ―ブラウンズフィールドの中心にはいつも暮らしがある どうやったら持続可能なコミュニティが作れますか? なんて聞かれたりすることがあるのですが、ブラウンズフィールドの場合はコミュニティにしようとしてコミュニティになっているわけではなくて、家族の生活の続きの場として、みんなで助け合いながら育っていっているという感覚なんです。だから、いつだって中心にあるのは、暮らしのことです。 農的な暮らし、サスティナブルな暮らし、いろいろですが、焦点は常に暮らしにあって、だからこそ続いてきたのかなと思っています。梅の実がなったら収穫して梅干しをつくるとか、かぼすができたら収穫して加工するとか、米が実れば麹にして味噌をつくるとか、大豆を醤油にするとか。何があっても季節は巡ってきて、生活は続いていくものですから。今の季節を謳歌しつつ、来年、再来年でにできるお味噌のこと、それを食べるスタッフや家族、お客様のことまでを考えて、今手を動かしておく。ブラウンズフィールドは、そういうたんたんとした積み重ねの延長線上にあるんです。(写真)ヤギのお絹さんと天日干し中の梅。梅はお庭で採れた無肥料無農薬のもの。 今ブラウンズフィールドに来てくれるのは若い人が多いのですが、ゆくゆくは老若男女、体が不自由な人、どんなバックグランドの人も、みんなが持続可能な形で助け合える場をつくりたいと考えています。もう少し先のことですけれど、自分が入る老人ホームがあって、その隣に保育園があって、そのまた隣に助産所があって、生まれたり死んだりできる場っていうのかな。地域の中で同じ方向を向いている人たちが助け合って生きる、それこそが本当に豊かでサステナブルな暮らしなんじゃないかと思うんです。 パーマカルチャーはオーストラリアで生まれたと言われていますが、昔の日本の村社会はパーマカルチャーそのものだったわけじゃないですか。持ち出しせず、持ち入れもせず、そこで採れるものを循環させて。これからは、私たちなりの新しいパーマカルチャー、持続可能な村社会みたいなのをそれぞれの地域でつくることができたら、その先には豊かな社会が実現できるはずです。誰のことも排除せず、みんながお互いを受け入れて助け合う。それぞれやりがいがあることをして、それがパズルのピースのようにかみ合って全体が豊かになるような、そんな未来をつくれたらいいなと思うんです。 ■  中島デコ / マクロビオティック料理家 16歳でマクロビオティックに出会い、25歳から本格的に学び始める。1999年、千葉県いすみ市に田畑つき古民家スペース「ブラウンズフィールド」を開き、 世界各国から集まる若者たちとともに、持続可能な自給的生活を目指す。サステナブルスクールや各種イベント、ワークショップの企画運営をしつつ、国内外で、講演会やマクロビオティック料理講師として活躍中。2024年1月19日、『中島デコのサステナブルライフ~人も地球も心地よい衣食住・農コミュニティ~』(パルコ)が発売される。instagram: @deco_nakajimaHP:Brown's Field公式サイト Text&Edit :...

# COMMUNITY# ORGANIC# RELATIONSHIP#SUSTAINABLE#パーマカルチャー

SISIFILLEコミュニティーイベント開催レポート

先日、東京・代々木上原でSISIFILLEコミュニティーイベントを開催しました。ブランドのはじまりから8年、リニューアルから1年が経った今、私たちのものづくりとその背景を紹介し、私たちが追求する「やわらかさ」を改めて皆さんと共有させていただきました。会場1階でプロダクトの展示とインスタライブ、2階でトークショーと上映会を行いました。 ―イベントの概要と当日の様子 ーSpecial contents 01ーインスタライブ COMMUNITY CONVERSATION with cumiテーマ:「自分自身を大切に。ーわたしたちが心身ともにやわらかくあるためにはー」 ゲスト:  森田敦子さん (植物療法士/サンルイ・インターナッショナル代表)大学を卒業して、航空会社の客室乗務員の仕事に就くも、ダストアレルギー性気管支端息を発病。その治療として植物療法に出会い、驚くほどの効果を実感。本場のフランスで学びたいと、航空会社を退職し渡仏。フランス国立パリ13大学で植物薬理学を本格的に学び、帰国後、植物療法に基づいた商品とサービスを社会に提供するため、1998年1月、会社を設立しコスメ開発やスクール(ルボア フィトテラピースクール)を主宰。著書に「成分表示でわかる化粧品の中身」(2001)、「自然ぐすり」(2016)、「潤うからだ」(2017)がある。 SISIFILLEのインスタグラムアカウントで定期的に行なっているインスタライブ。今回はゲストの森田さんにイベント会場にお越しいただき、森田さんの主宰するWOMB LABOさんとのコラボ配信でお送りしました。周りをやわらかくするためにも、まずは自分自身を大切にしてあげることが必要。森田さんが様々な経験を経て得られた心や体をケアすることの大切さ、植物療法という視点でのケア方法についてなど、いろいろとお話しいただきました。「まずは自分だよ。誰かのためにっていうのは一旦やめよう。」という森田さんの言葉はとてもシンプルですが、現代に生きる私たちが疎かにしてしまっていること。自分自身を大切にする、ケアする、それが基本。その先に誰かのためという行動が生まれ、やわらかい世界につながる。私たちのブランド理念にも紐づく、心に残るお話でした。 アーカイブはこちらからご覧ください。 ーSpecial contents 02ートークショー 共生革命家ソーヤー海さん × SISIFILLEブランドコミュニケーター本田テーマ:  SOFTEN THE WORLD. SISIFILLEとパーマカルチャー、それぞれが目指す未来にあるやわらかい世界とは?」ゲスト: ソーヤー海さん東京アーバンパーマカルチャー創始者。1983年東京生まれ、新潟、ハワイ、大阪、カリフォルニア育ち。カリフォルニア州立大学サンタクルーズ校で心理学専攻、有機農法を実践的に学ぶ。2004年よりサステナビリティーの研究と活動を始め、同大学で「持続可能な生活の教育法」のコースを主催、講師を務める。元東京大学大学院生。国内外でパーマカルチャー、非暴力コミュニケーション、禅/マインドフルネス、ギフトエコノミーなど、さまざまな活動を行っている。いすみ市に「パーマカルチャーと平和道場」を立ち上げ、共生社会のための実験やトレーニングの場として展開している。二児の父。。。。著書 『Urban Permaculture Guide 都会からはじまる新しい生き方のデザイン』、『みんなのちきゅうカタログ』(英語版 Our Earth...

# BACKGROUND# COMMUNITY# RELATIONSHIP#EVENT

受け取ったバトンをつなぐ ー産地の声をユーザーに伝えていくことー 三保真吾さん

オーガニックコットンのリーディングカンパニーであるパノコトレーディングに身を置いて15年以上になる三保さん。オーガニックコットン業界では世代交代の波が訪れ、三保さん自身もその流れのなかにあります。先代からバトンを受け取って走り出そうとする今、そのバトンを未来へどうつないでいくのか。オーガニックコットンの産地であるペルーやタンザニアを実際に訪れて感じた想いを伺いました。 (写真)見渡す限りオーガニックコットンが広がるタンザニアの畑。 ー産地への訪問で、これからの課題や役割がクリアになりました ー オーガニックコットンを取り扱い始めて30年になるパノコトレーディング。これまでどのようなことにこだわって事業を行ってきましたか。 三保:この事業を始めた1990年代初頭は、“オーガニックコットン” という言葉って日本ではまだほとんど認知されていませんでした。生産量も少なく、クオリティもずっと低かった。でも、その頃から辛抱強く続けてきたからこそ、早い段階でいいサプライヤーに出会うことができたんだと思います。ペルーやインド、タンザニアなどの農家さんからオーガニックコットンを買い付けている私たちのパートナー企業は、業界内においてそれなりのポジションにある。世界中に存在する多くのサプライヤーのなかでも、歴史と信頼のある企業だけからオーガニックコットンを仕入れることが私たちのこだわりであり、強みにも直結しています。 ー ペルーやタンザニアを訪問し、実際に現地を見ることで、どのようなことを感じましたか。 三保:これまでも会社としては定期的に産地訪問を行ってきましたが、私自身がペルーとタンザニアを訪れたのはいずれも今回が初めてでした。実際に行ってみると、現地の人たちの情熱や熱量みたいなものをすごく感じましたね。農家の方々はもちろん、我々が直接やりとりをしているパートナーの現地スタッフもしかり。彼らの姿勢を目の当たりにすると、オーガニックコットンの価値をきちんと伝えて広めていかなければという思いがより強くなりました。そして、このつながりを築いてくれた現社長たちに対して、私たち世代に素晴らしいものを残してくれたという感謝の気持ちが深まりました。 (写真)ジニング(綿から種を取り出す作業を行う)工場にある保管庫に原綿が運びこまれる様子 ー 「世代」というワードが出てきましたが、パートナーであるペルーのBERGMAN RIVERA(バーグマンリベラ)社や、スイスのREMEI(リーメイ)社、そしてインドとタンザニアにいるREMEI社の現地責任者たちもちょうど代替わりをしてきているんですよね。三保さんと同じ世代の方々がそれぞれの責任者になっている。 三保:そうですね。パートナー企業も2代目に世代交代していますし、近い将来、私もこの会社のバトンを受け取る立場にあります。それぞれ、受け取ったバトンを丁寧に持って走り出しているのですが、時代の流れに応じて変えていかなければいけないことや、改善していかなければいけないことが当然出てきていて。今回の訪問で、その課題や私たち世代の役割がよりクリアになったと感じています。 ー産地を訪れるというよりは、仲間に会いにいく感覚です ー ペルーには2019年に訪問したそうですが、SISIFILLE(シシフィーユ)とペルーはどのような関係性なのでしょう。 三保:シシフィーユでサニタリーショーツなどに使用している、やわらかく滑らかな肌ざわりの「ピマコットン」というコットンがあります。コットンにもいろいろな種類があるのですが、繊維長の長い「超長綿」のルーツはペルーにあり、なかでもピマコットンは希少価値の高い、世界最高峰の超長綿なんです。そのピマコットンを扱う現地のパートナー、BERGMAN RIVERA社の社長は、2代目のオーランドさん。先代が立ち上げた南米初のオーガニックコットンプロジェクトを引き継いで運営しています。    Your browser does not support our video. (動画)ペルーの畑でピマコットンを収穫する農家の方 ー...

# BACKGROUND# BIORE PROJECT# COMMUNITY# FAIRTRADE# ORGANIC COTTON# RELATIONSHIP

関係する全ては有機的なつながりでできている ーコットンペーパーブランド「HATAGUCHI COLLECTIVE」ー 加藤寛子さん

ゆったりと穏やかな口調で話し、柔らかな雰囲気を纏う加藤寛子さん。現在アメリカ・サンフランシスコベイエリアに暮らす彼女は、その雰囲気からは想像もできないほど行動派で積極的。20歳で進学の為サンフランシスコ州に渡航し、そこからバーモンド州、ニューヨーク州、日本、シンガポールと「やりたい」と思った事を実現する為に、様々なフィールドに飛びました。そんな彼女が興味本位で行った旅行先のインドで出会ったのは、「HATAGUCHI COLLECTIVE(ハタグチ・コレクティブ)」というステーショナリーブランドを立ち上げる大きなきっかけとなる、昔ながらの手法で作られたコットンペーパー。繊維工業で廃棄されるコットンをリサイクルして作られるその紙がもたらす有機的なつながりとは、一体どんなものだったのでしょう。 ー運命の地、インドに足を踏み込むまで 初めてアメリカへ渡航したのはサンフランシスコ・ベイエリアの短期大学に入学した20歳の時です。卒業後はバーモンド州の4年制大学に編入し『環境化学』を学んでいました。大学院でサイエンスを極めようとも考えたのですが、『働きたい!世界を見たい!』という漠然とした気持ちが強く、そのまま卒業しました。卒業後はニューヨークに移り、アパレルで販売員として働いていました。ある日、偶然買い物に来ていた某ハイブランドのクリエイティブディレクターに声をかけられ、それをきっかけにそのブランドで3年間ほどビジュアルマーチャンダイザー(以降VMD)として働くことになりました。別のアパレルブランドへ転職した後もしばらくVMDとしての仕事を続けていました。その後2008年のリーマン・ショックを機にパートナーが「大学院で学び直したい。」と、東京の大学院に行く事になりました。私も一緒に東京に行く事を決め、ニューヨークで勤めていた同じアパレルブランドの日本店舗に勤める事になりました。東京での生活を始めて2年ほどたった2011年に東日本大震災が起こります。外国人である私のパートナーは、外国籍枠のビジネスがすっかりなくなってしまった日本で職に就く事が困難な状況になってしまったのです。そんな時に知人が彼の故郷、シンガポールでの仕事を紹介してくれて、彼は先にシンガポールへ帰国することになりました。私は当時の仕事が好きで、すぐに日本を離れるという決断ができず、結局パートナーとは日本とシンガポールで離れた期間を過ごすことに。そこから一年後、私は意を決して仕事を辞め、彼がいるシンガポールに引っ越しました。 シンガポールに移住後はフリーランスとして働いていました。知人が経営するレストランのフラワーアレンジメントや店内に飾る絵を装飾するなど、インテリアデザイン関係の仕事をしていました。 シンガポールは多民族国家で、多くのカルチャーが共存しています。その中でも私は以前より一度訪れてみたいと思っていた、インドの文化に強い興味を持っていました。インド人が多く住んでおり、インド街もあったので日常的にインドカルチャーに触れる事で、更にインドという未知の国に行ってみたいという気持ちが大きくなりました。大学を卒業してから働きっぱなしだった中、ようやく自由な時間ができた時期だったので、2週間ほど北インドへ旅行に行く事を決意。そこで伝統的な手法で紙を作る、インドの職人達に出会ったのです。 ーラフさがある伝統的な紙製品をもっとおもしろく 彼らは衣料品から出た綿の廃棄物を原料に、昔ながらの手法で紙を作っていました。私は彼らのプロダクトを見てすぐに「一緒に物づくりをしたら面白いだろうな。」と思い、その場で彼らにこのプロダクトに携わりたい気持ちを強く伝えました。彼らは私を温かく迎え入れてくれました。その瞬間はとても胸が躍りましたね。物づくりに対して同じ情熱をもつ人達なので、「きっと何をしても上手くいく!」という直感がありました。ただ今ならわかるのですが、インドの方は頼み事に対して「N O」というこたえを持っていない人が多いように思うんです。基本は全部「Y E S」(笑)。でもあの時の「Y E S」は本当に嬉しかったし、紙づくりの経験がない私に一から色々な事を教えてくれるインドの職人の皆さんにはとても感謝しています。 多種多様な紙文化を形成してきた日本に比べ、アメリカの紙文化はそれほど深くありません。インドで彼らが作る紙を見た時、アメリカ暮らしが長い私の心に忘れていた日本の素晴らしい紙文化がわっと一気に思い起こされました。彼らの作る紙は伝統的に引き継がれてきたハンディクラフトではあるものの、日本の伝統文化継承のような『普遍的なきちんとさ』はなく、いい意味で生活に溶け込んでいる「ラフさ」があります。一般的なインドっぽさを連想させるモチーフをプリントしてあるのも素晴らしいのですが、私はそれらをモダンなデザインで展開していったらおもしろいのではないかと思いました。そうしてできたのが「HATAGUCHI COLLECTIVE」です。 ー「HATAGUCHI COLLECTIV」が生み出すサステナブルなコットンペーパー インド北西部にあるラジャスタン地方・ジャイプールでは昔からハンディクラフトが盛んです。代表的なものの一つとして、衣料品メーカーから出る裁断された布の切れ端を原料にして作られた、コットンペーパーがあります。まずは布の切れ端を細かくし水に溶かしてパルプにします。それを擦って乾かし、乾いたものの表面をローラーで滑らかに仕上げていきます。一枚一枚全ての工程を手作業で行なっているのです。色出しについては、細かい色の調整は染色しているのですが、青色の紙を作る時は青い布を選ぶなどして基本はパルプの色を活かしています。柄はスクリーンプリントで刷ってプリントしています。もちろんこれも手作業です。 大きな工場で製造するのではなく手作業が中心なので、モンスーンや雨が続くと紙やプリントの乾きが悪くなり、作業が滞ってしまいます。天候に左右されやすく、納品に遅れがでてしまう事があるのが悩みですね。でも手に取る人たちに、そんな自然環境が関係している事も含めて、一つのプロダクトとして受け入れてもらえると嬉しいです。アパレルの世界にいた時は、そのシーズンに出ているものは数ヶ月後にはセールで扱われる事は当たり前で、すごいスピードで多くの廃棄物が出るのを目にしてきました。今はその廃棄物で新しいものを生み出し、シーズン関係なく長く大事にしてもらえるという事は、「HATAGUCHI COLLECTIVE」で紙を作り続ける理由の一つであり、コンセプトそのものです。 ーパートナーである職人達の人生を抱える覚悟 当初「ブランドを立ち上げよう!」という思いはなくて、気づいたらブランドになっていたといった感覚なんです。でもインドで出会った職人さんたちと一緒にプロダクトを作るビジネスパートナーとしての責任はずっと感じていました。趣味のように始めてしまった「HATAGUCHI COLLECTIVE」ですが、『私の裁量で彼らの仕事量が増え、生活が潤うんだ。』という考えは私の中で強く、仕事への責任感は年々増しますね。 初めてやり取りをした生産パートナーは、発注して仕上がった商品を私の手元に届けてくれるまでに半年以上かかる……なんて事もあり、安定しているとはとても言えない状態でした。アメリカの見本市などにも参加した事があったのですが、納期が不安定な状態だったので、発注を頂いても在庫が確保できずに注文をキャンセルされてしまうといった事が続きました。ブランドを立ち上げて5年ぐらいは存続危機の連続でした!もう「HATAGUCHI COLLECTIVE」を畳んでしまおうかと考えた時もありましたね。 もう一度インドに足を運ぶ事を決めた時、知り合いが「インドを周る時に一度詳しい人に頼ってみては?」とガイドさんを紹介してくれました。ガイドさんは紙を制作する工房、スクリーン印刷版を作る工房、印刷工房が集まった、ペーパービレッジのような場所を案内してくれました。そこで目にしたのは、紙工房で紙を制作後、向かいにある工房で版を作り、その向かいの工房で印刷するという、スピーディに仕事をする職人達でした。私はこの場所で、「HATAGUCHI COLLECTIVE」のプロダクトチームを作ろうと決心しました。職人達の人生を抱える覚悟を再び決めた時でもあります。 ーブランドで人の感情を揺さぶり、地球に有益な立場でありたい  新しいものを見た時に興奮して息が上がったり、わくわくした感情で心揺さぶられたりする様な出会いを、「HATAGUCHI COLLECTIVE」のステーショナリーを手に取った人が感じてもらえたらなと常に思っています。近年紙のリサイクルが増えてきているとはいえ、もっと世界に広まっていく事を願っています。その気持ちはブランドの在り方で変わらないところですね。地球にとって有益な立場でありたいです。また、生産者あってのプロダクトなので、ブランドとしての発信などで気をつけているのは、このブランドは「私自身ではなくWe(私たち)であること」です。私は「HATAGUCHI...

# BACKGROUND# FAIRTRADE# RELATIONSHIP

エネルギー溢れるシャスタの地で得た芯ある心地よい生き方 / 岡本あづささん

古くからネイティブアメリカンの聖地として大切にされてきた、北カリフォルニアにあるマウントシャスタ。その麓に暮らす大切なパートナーであるジュディとリチャードとの運命的な出会いをきっかけに、Mount Shasta Apothecary(マウント・シャスタ・アポセカリー)をはじめることになった岡本あづささん。シャスタでの出会い、体験、そしてパートナーとの関係性には、健やかな生き方をするためのヒントがたくさんあり、ホリスティックな健康を手に入れる大きな学びが存在しました。 ―シャスタと不思議な人々との出会い 2012年当時、主人の仕事の都合でサンノゼに住んでおり、知人から北に自然豊かなマウントシャスタという場所がある事を教えてもらいました。アウトドア好きの私たち家族は、折角サンノゼにいるのだからシャスタへキャンプをしに行こう!となったのがシャスタの地と出会うきっかけでした。それにあたりシャスタのキャンプ場を検索していたのですが、英語が得意ではない私はサイトに載っている写真を見て場所を選んでいました。その中で、ネイティブアメリカンの住居『ティピ』が集っている写真を掲載しているサイトを見つけ、「面白そう!このキャンプ場ではティピにも泊まれるんだ。」と思い、宿泊したい旨をメールしました。そのキャンプ場は住所がないような荒野のかなり奥地にあり、途中でキャンプ場関係者だろうと思われる、おじさんとおばさんに迎えに来てもらい、ようやく辿り着けるような場所でした。しかし、いざキャンプ場についたら他に誰もお客さんがいなくて……。あれ?今日は貸切なのかな?なんて思っていたら、実はそこはキャンプ場ではなくただの民家だったんです! 迎えに来てくれたおじさんとおばさんは、そこの住人のリチャードとジュディでした。彼らは元々ネイティブアメリカンと交流があり、プライベートエリアでネイティブアメリカンの儀式などをしていたので、そのためにティピがあったのです。私はここが民家だと気づくまで、何かおかしいぞ?という感覚だったのですが、リチャードとジュディは初めから何とも思っていない様子で夕食も振る舞ってくれ、「来るのは分かっていたよ。」と不思議な事を言っていました。 ―シャスタのエネルギーをもつプロダクトを守りたい ジュディはハーブや野菜を育てており、それらでエッシェンシャルオイルやハーブティーなどのプロダクトを作っていました。彼女は滞在中に「これはあなたに必要な野菜よ。」「これはあなたのために育てたハーブよ。」と、初めて会う私におかしな事を言って料理を勧めてくるんです。実際に彼女が作ったハーブティーや野菜を食べてみると、ものすごい衝撃を受けました。今まで口にしたものとは別次元のパンチ力があり、パワフルなエネルギーを身体が吸収するのを感じました。驚いて「これはどうゆう風に作っているの!?」と聞きくと、ジュディは自身の事とプロダクトの事を教えてくれました。彼女はマスターハーバリスト資格、大学院で西洋医学の国家資格を取得していました。しかし彼女の知識のベースは、ネイティブアメリカンのメディスンマンにフィールド上で叩き込まれた薬草学でした。彼女は現代の医学知識と、伝統的な薬草学の2つを合わせてエネルギーあるプロダクトを作っていたのです。  彼女は自身のプロダクトをもっと多くの人の役に立てたいとは思っていました。しかし、住所もなく生活システムも自分達で作る環境に住んでいる彼女は、今の時代にフィットするインターネットなどの知識は持ち合わせておらず、プロダクトを広める手立てが分からずにいました。また、ネイティブアメリカンの薬草学は、伝統的に書物や書類のような形で残すものではなく口承で後世に伝えていくものらしく、彼女が作り上げたプロダクトを残すには、誰かが口伝えしなくてはならない事も話してくれました。「今はインターネットでものを買う時代。だけど自分はそのやり方を習得して販売する程の余力もモチベーションもない。」と言い、彼女はこのままでは自分のプロダクトは自然と消えてしまう、という事実を前に製作への情熱を失いつつある様子でした。 実際に彼女のプロダクトの力を体感しその話を聞いた私は、『この素晴らしいものがなくなってしまうのはまずい!』と思いました。私はハーブの知識はないけど、彼女がネックに思っているネット関連の部分は協力できる事があるかもしれないと思い、「もし手伝えることがあれば手伝いますよ。」と話をしました。この時は彼女を元気づけようと軽い気持ちで言ったのですが、実際にはこの瞬間がこのプロダクトに関わることになったスタートでしたね。今思うと初めて会った時に「来るのは分かっていたよ。」と言われたのも、ジュディのプロダクトが消えてしまわないように引き寄せられたのかもしれない。出会うべくして出会ったのかなと思いますね。 ー植物はポジティブな存在 ブランドを手にかけるならまずは自分を整えること 私はあくまで「ネットでの広め方を手伝うよ」というくらいの気持ちでしたが、彼らは『協力者』ではなく一緒にブランドを立ち上げてほしいという意向でした。そしてパートナーとなるとジュディは「植物はとてもポジティブな存在。ネガティブなものを持つあなたが植物に触れると、植物の最大限のパワーを引き出せない。まずは自分を整えなさい。」と言ってきたのです。また、パートナーとしてプロダクトを理解しようとしたのですが、彼女はハーブの種類や効能などは一切教えてはくれません。「ハーブの知識は後からでもついてくる。まずは人とハーブとの関係性や、ハーブはこの星にとってどんな存在なのかを考えなさい。」という壮大な課題が入り口でした。 教えに従ってハーブ関連の本などは一切読まず、早朝から夕方までハーブの世話と観察をし、自分だけの教科書を作りました。○時ごろにミツバチが来て、その後に朝日が昇り、○時ごろにこの種類の鳥が鳴き始める……といったような観察結果をジュディに毎日報告しました。それを見て彼女が「植物は朝日を浴びる瞬間に光合成を始める、ミツバチはエネルギーが一番高まる時に来ているの。」などと教えてくれました。私はただハーブを観ていたのではなく生態系そのものを学んでおり、彼女のプロダクトの世界観の大きさを知りました。 その後日本に帰国し、ジュディのプロダクトを輸入できるよう手はずを整えました。商品が手元に揃った時、『オーガニックライフTOKYO 2016』というイベントで初めてブランドとしてお披露目させてもらいました。 ―今も続く第二の故郷シャスタとの関係  毎年1回は行っています。コロナ期間は行けなかったので、今年3年ぶりに行くことができました。ジュディ達は私の息子も孫のように接してくれて、本当の家族のようです。私達の第二の故郷ですね。会えない期間や日本にいる時も、頻繁にメールやラインで連絡を取っています。『山に雪が積もったよ。』『月が綺麗だよ。』みたいなたわいも無い会話をしています。血の繋がりがない間柄でこんなに見守ってもらえて、また愛ある厳しさを与えてもらっている事に対してありがたく思いますし、それに応えられる自分でいたいと思います。 ―シャスタで過ごし学んできた自分軸で生きる大切さ ずっと体感させられているのは、『頭を使うな。体と心を使え。』という事です。体で感じて、心で話せという事を今でも伝え続けてもらっています。 また、ビシバシ擦り込まれたのは『他人の反応に反応するな。』という事ですね。人の反応に対して勝手に落ち込んだり、悩んだりするなという事です。私自身の体験を実例としてお伝えすると、毎日リチャードに挨拶していたのですが、目も合っているし、絶対聞こえているはずなんですけど、「モーニン!」と挨拶しても無視されるんです。1回そういった事があると、次から萎縮してしまったり、避けてしまったりして……。でも私の考え方なんてあちらには全てお見通しで、数日後に「君は相手が無視をしたという反応にショックを受けているけど、挨拶は相手が返してくれるからするものなのか?相手の反応に関係なく、君が気持ちよく1日を始められたらそれでいいんじゃないか?」と問われ、自分がいかに相手軸で動いていたかということに気づかされましたね。シャスタでは自分軸を作るレッスンのような教えを日常的にたくさん受け、生きる上での大きな学びにつながっています。 ―日本の女性が自分をリスペクトできるようにサポートしたい  ブランドを通して、体調面・人間関係を含めてホリスティックな健康のサポートをしていきたいです。日本の女性が誰の目も気にせず、誰かの期待に応えるためにではなく、自分のために自立した真の健康の輝きに気づくきっかけを与えられればと思います。ジュディに「先進国なのに日本の女性は傷ついている人が多い。」と言われてドキッとしたんです。それはパートナーシップだったり、まだ社会に男尊女卑な部分があったりと、日本独特の伝統的な『世間体』が自分達を潜在的に傷つけていると思うと、涙が出そうになりましたね。また女性は人生の過程で変化も多く、ホルモンバランスなど健康面でも気にかける事が多いです。それらのバランスを健康面・精神面共に健やかに保ち、自信を持って自分をリスペクトできるような女性を増やしていければと思います。シャスタでの体験は、『人生の盲点』をたくさん気付かせてくれました。ハーブやプロダクトの事はもちろん、私が体験し学んだ事も周りにシェアして誰かの役に立ちたいです。まだ私も日々もがいている最中なので、よりよく健やかな人生を歩めるようなヒントの一つとして捉えていただけると、体験した身としては嬉しいですね。 ■ 岡本あづさ/ Mount Shasta Apothecary主宰 古くからネイティブアメリカンの聖地として大切にされてきた北カリフォルニアにあるシャスタ山。その麓で静かに暮らすマスターハーバリストのジュディとの運命的な出会いから、彼女が作るヘルスケアプロダクトを日本に届ける役割を担う。マウンテンセージやジュニパーに覆われた豊かな土地でジュディが作るオーガニックハーブプロダクトは、シャスタの自然が与えてくれるエネルギーをたっぷりと取り入れている。 instagram: @mountshastaapothecary HP: Mount...

# HEALTH# ORGANIC# RELATIONSHIP# SOFTNESS

初めてご注文で10%オフ。クーポンコード [ WELCOME10 ]

Cart

No more products available for purchase

カートに商品がありません。