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COMMUNITY

暮らしの風景を創造できるような麦酒をつくりたい ー里山の原風景を紡ぐ夫婦の物語ー中村レイコさん

長野県・青木村の里山で「麦酒(ビール)」の醸造を行う「Nobara Homestead Brewery(ノバラ・ホームステッド・ブリュワリー)」の中村レイコさん・圭佑さんご夫婦。家族の住居と醸造所を兼ねた4000坪ものフィールドで「暮らしに根ざした酒文化の創造」をテーマに、自然の恵みを活かした麦酒づくりをしています。二人の子どもを育てながら醸造所の運営、フィールドの整備を担うレイコさんに、これまでの歩みと麦酒に込めた思いを聞きました。 (写真)デザイン、広報も自ら一貫して担う ーデザインバックグラウンドを持つふたりの出会い もともと、都内でデザイナーとして活動していた夫と、同じく東京でデザインを基軸とした職場で働いていた私。がむしゃらに目の前のことをこなしていた20代、私の転機になったのは東日本大震災でした。震災後の社会への違和感や働き詰めの日々に疑問を感じて、日本を飛び出し単身スコットランドへ。このままではただ流されて生きていくことになるような気がして、リセットしたいと思ったのです。スコットランドでは、自分と向き合い、デザインというものを改めて捉え直したり、この先どうやって生きていこうかと人生を立ち返ったりすることができました。将来的に自分のブランドを作りたいと思うようになり、ブランドの立ち上げから学ぼうと、2013年の帰国後はブランディング業界で働きました。 夫と出会った時、お互いデザインを職業としていて、同じ関東圏の出身だったり、お酒が大好きだったりと共通点がたくさんありました。また、お互い若い時から順風満帆な道を歩んできたわけではなく、デザインに関しても現場での叩き上げでやってきた、みたいなところにすごく仲間意識を感じたのです。やがて、私のブランドを作りたいという思いや彼のモノづくりに挑戦したいという気持ちが合致して、一緒に麦酒を作ろうという話に。私たちが携わってきたデザインにまつわるあれこれを集結させたらきっと叶えられるだろう。そして、麦酒を作ることは私たちふたりの夢になりました。 (写真)念願の助産院で長女を出産 ー家の道しるべとなったパーマカルチャー 結婚後、2018年に第一子を出産。産後、体重の減少や手の震えなど体調が優れない日々が続き、その後の健康診断でバセドウ病を患っていることが判明。この頃、病気による感情の起伏の激しさや身体の不調、初めての子育て、コロナなど多くのことが重なり、私も夫もお互いにストレスを抱え、夫婦の関係性も悪化していました。お医者さんからは、病気を治すにはストレスをなくすことと言われ、生き方を見直すことを考え始めました。そんな中、神奈川県藤野町にあるパーマカルチャー・センター・ジャパンのデザインコースのことを知り、これで人生が変わるのではないかと直感的に感じました。ここに行けば、病気も家族の関係性も良くなるかもしれない。まだ娘が小さく不安もありましたが、夫と相談し、思い切って月に一度、泊まりがけのプログラムに参加することにしました。(写真)パーマカルチャー・センター・ジャパンでの講義風景 パーマカルチャーとの出合いは、本当に人生を変える出来事でした。私が生きたい世界はこれだ、これなんだ、と心が震えたことを覚えています。1年間受講した後、次は夫にバトンタッチ。夫婦共に学んだことで、これからの暮らし方、麦酒作りへのビジョンを明確に描くことができるようになりました。パーマカルチャーの考えに沿った自然と共にある暮らしを実現することで、これまでうまく運んでいなかった全てのことが解決するだろう。そう確信し、東京ではない場所を探し始め、巡り合ったのがこの地です。大正時代から受け継がれてきた住居と自然豊かなフィールドを抱えたこの場所を初めて訪れた時、幼少期の原風景がふと思い出され、ここで生きていることを感じられるような暮らしをしたいと強く思いました。そして、2021年に移住。居を改修し、フィールドを整備しながら醸造所を作り始めたのです。(写真)既存厩舎を生かし取りして組み上げた客席部の建前(写真)醸造を担当する夫の圭佑さん ー暮らしに寄り添い、命を感じられるような麦酒を作りたい “生きること”をするために何をしていこうか、と考えた時、私たちの答えは“人の身体に入れて出せるものを作る”ということでした。私たちは食を通して命を循環させている生き物です。麦酒は海外で生まれたものですが、原料の麦は、昔から食べ物として日本人の身体に入ってきたもの。私たちは「麦酒」を作っているというより、日本で生まれた「麦酒」という食べ物を作っているという感覚がしっくりきています。食べ物を作っているということは、すなわち命を作っているということ。素材もなるべく自然に寄り添ったもの、この土地にあるもの、季節に寄り添ったものを使い、命を感じられるような麦酒を作っていきたい。美味しいというのはもちろんのこと、飲んでくれた人がここの美しい情景までが浮かぶような麦酒作りを目指して日々真摯に向き合っています。私たち夫婦の幼少期の記憶として、親戚が集まって麦酒を飲んでいた姿が強く印象に残っています。そのせいか、日常にもお祝いの席にもあるお酒というものがすごく好きなんです。麦酒は、人との繋がりを強めてくれるものだと思っていますし、麦酒だけではなく、お酒がつくるコミュニティも醸造していきたいと考えています。人が食と麦酒を囲む暮らしの風景を作っていきたいんです。 ーこの地に生きにきたけれど、死にもきたのだ  移住して初めの年は畑を作って、コンポストを作って、オフグリッドにしてなど、思い描いていたことを様々やってみたのですが、その結果すごく忙しく大変になってしまいました。畑にしても家族だけでは消費できないぐらいの野菜ができてしまって。余剰は分け合うというパーマカルチャーの考えがあるのですが、人に分けてもまだ余るぐらいでした。土に還すこともできるけれど、それもどうだろうとモヤモヤ考えているうちに二人目を妊娠していることがわかり、二年目はお休みしました。すると、地域の方達から家族が生きていけるぐらいの量の野菜が運ばれてきました。野菜はもう十分に地域に循環していたんですね。ということは私たちがこれ以上作る必要はなくて、他にやるべきことがあるんだと考えるようになりました。やがて季節が巡り、庭になった美味しい柿を皆さんに返しました。昔この土地を開拓した人たちが植えた果樹が、今見事に実をつけてくれている。何十年もの月日を経て、今その恵みを私たちがいただいているということ。これこそを循環というのではないだろうか。循環する仕組みというのは、無理をしなくてもアクセスできるものなのかもしれない。これは、この暮らしをもってしか分からないことでした。今も、循環とはどういうことなのか、少しずつ、少しずつ噛み砕いて考えています。(写真)地名に由来する奈良品種の柿が実る  (写真)自生している植物はなるべく使っていきたい 私たち夫婦も人生折り返しに近づき、この地には生きにきたけれど、死にもきたのだということを感じています。生きると死ぬということがグッとつながったのです。生き物と共存した生態系の中では、最期は土に還ります。いつか土に還るために、私たちは何をしていくの?ということを意識するようになりました。近い将来には、敷地内の樹木や、果樹、薬草や穀物といった、生きるために必要な食料の知恵を皆さんに伝えていきたいと思い、ゆくゆくはこの場所をBrew(醸造する)と、Library(図書館)から成り立つ造語「ブリューブラリー」として地域に開き、誰もが立ち入れて学べる場所にしたいと考えています。この暮らしが始まって、まだ三年。やりたいこと、課題は山積みですが、今の私たちの関係性ならば、一緒に思案しながら解決していけると思うんです。 ■ 中村レイコ / Nobara Homestead Brewery フィールド・ファーメンテーション・ディレクター 空間・イベント・グラフィック等、 クリエイティブの分野に広域的に従事。 3.11を機にスコットランド・エディンバラに留学。2021年に長野県青木村へ移住。麦酒醸造所「Nobara Homestead Brewery」を夫とともに営み、パーマカルチャーの概念を基軸としたサスティナブルな麦酒づくりを行う。 2023年4月に実施したクラウドファンディングで資金調達を達成し、来春テイスティングルームのオープン予定。フィールドワークを加えたエクスペリエンスプログラムを準備中。健やかな「食」としての麦酒文化を定着することで、日常にあたりまえの美学を実装するための模索・研究をしている。 HP:...

# BACKGROUND# COMMUNITY#SUSTAINABLE#パーマカルチャー

マグカップで育まれるつながり ーコミュニティーを生み出すハンドメイドの力ー rieさん

サンフランシスコ・ベイエリアでパートナーのジェイさんと共に陶芸アトリエ「DION CERAMICS(ディオン・セラミックス)」を営むリエさん。2011年に前進となるマグブランド「Atelier Dion(アトリエ・ディオン)」が生まれてから、制作にかかる全てのプロセスを自分たちの手で行っています。シンプルながら温もりのあるマグ(マグカップ)は、地域のいくつものレストランやコーヒーショップで使われ、ローカルの人々を中心に愛されてきました。「マグこそが私たちのコミュニティー」と語るリエさんの言葉通り、ふたりの生み出す作品がハブとなって人と人がつながり、コミュニティーとして豊かに育まれてきました。「ずっと自分が心地良いと感じる場所を探して動いてきた」というリエさんが今に辿り着くまでの軌跡とは。私は、愛媛県伊予市で生まれ育ちました。海と山が近い、今住んでいるベイエリアにも似た雰囲気のある場所です。私の陶芸の原点は、愛媛の砥部焼にあります。実家で使われていた食器は、母が砥部焼の陶器市で買ってきたものでした。うちは、お客さん用と日常使い用の食器が分かれていたのですが、子どもの頃はそれがすごく不思議だったんです。母と陶器市に行くとB級品の器が売られていて「これはここに傷が入っているから安いのよ」なんて教えてくれて。一方、お客さん用として大事にされている器は作家ものだということが分かり、同じ食器でもこんなに違いが生まれるんだというのが面白くて、自然と陶芸に興味を持つようになりました。大学生の時に「アメリカで陶芸をやりたい」と両親を説得し、日本の大学を中退して渡米しました。カリフォルニア州オレンジカウンティーにある大学の陶芸科に入り、卒業後はCalifornia College of Art(以下CCA)の大学院へ進学しました。作ることが中心だった大学の授業に比べて、CCAはもっとコンセプチュアル。手先が器用だったこともありそれまでトントン拍子できた私でしたが、ここに来て自分が無知だということに気づかされることになります。そこからは、陶芸のコンセプトやフィロソフィー、セオリーを学びながら、ひたすら思考を突き詰める作業を繰り返しました。CCAで過ごした時間は、人生で一番挫折し、一番勉強し、そして一番学校というものを好きになることができたひととき。この時期にとことん陶芸と自分自身を追求したことが、後に大きな糧となりました。(写真)パートナーのジェイさんと共にアトリエで作業をするリエさん(写真)型から抜いた制作過程にあるマグ。型と、型をとるための型も2人のハンドメイド。 ―サードウェーブコーヒーと地産地消の波に乗って。地域で愛される存在になったマグ CCAを卒業した2010年のアメリカは経済の見通しが悪く、就職氷河期の真っ只中。アートの分野での就職は特に厳しいものでした。ですが、まだ若かったこともあって楽観的で、アートセンターで陶芸の講師をしたりレストランで働いたりしながら、CCAの同級生だったパートナーのジェイと自宅アパートメントのガレージを拠点に創作活動を続けていました。そのうちにCCA時代の教授が陶器制作の仕事を紹介してくれるようになり、そこからさらにつながりが生まれて仕事の依頼が少しずつ増えていったんです。今でこそ陶芸家が自分でオンラインショップなどを営んでスモールビジネスを手掛ける人も多いですが、当時はほとんどいませんでした。むしろ陶芸をやっている人自体がとても少なくて。だからこそ、カスタムやファブリケーションの仕事をいただくことができたんです。 時期を同じくして、ベイエリアではサードウェーブコーヒーや地産地消など、飲食文化を中心に新しい波が盛り上がり始めた頃でした。現在のベイエリアではローカルのものを愛し、ローカルで生まれるものをみんなで応援していこうという考え方が当たり前のように根付いていますが、当時はまだそういう空気感はありませんでした。次第に、レストランやカフェで使用される食器も地元の陶芸家のものを起用しようという動きが出てきて、サードウェーブの先駆けだった「Four Barrel Coffee」や「Sightglass Coffee」のマグカップやソーサーを手がけていた私たちは、意図せずともその波に乗ることとなりました。たくさんの地域の飲食店やセレクトショップなどで取り扱っていただくようになり、自然な流れでマグブランド「Atelier Dion」が誕生しました。これまでずっと地域で人とつながり、顔が分かる人たちと仕事をしてこられているのは本当にありがたい事だなとつくづく感じています。 ―手作りのものが持つ力を借りてコミュニティーを作っていきたい 私たちの作品はシンプルに見えてものすごく手間と時間がかかります。ジェイと私の2人だけでブランドを運営しているため、子どもが生まれてからはだんだんと子育てと制作活動を両立する事の難しさを感じるようになっていきました。そのため体制を変えようと「Atelier Dion」を一旦お休みし、カリフォルニアの陶器ブランド「HEATH CERAMICS」で働きはじめました。それから3年半が経った去年、子どもたちが大きくなってきたこともあり、自分のブランドをまたしっかりやりたいと思うようになり、退社しました。運が良いいことに、今の自宅の大家さんが地下で陶芸がしたいという私たちのお願いを快く受け入れてくださり、子育てと制作、両方が無理なくできる環境を整えることができました。そしてAtelier Dion改め、これからは「DION CERAMICS」という屋号で本格的に再始動します。どんなに日々が忙しくてもジェイと決めているのは、マグの制作は絶対に続けるということ。なぜなら、マグこそが私たちのコミュニティーで、そのコミュニティに助けられたことで今の私たちが在るからです。だから絶対に失くしたくない。その思いを確かなものにした出来事がありました。私たち家族は数年LAに住んでいた期間があり、2年程前に再びベイエリアに戻って来たのですが、なんと引っ越しの翌日に全ての物が入っていたトラックが盗まれてしまったんです。当然、家の中は空っぽ。ありがたいことに友人を始めたくさんの人たちがすぐに必要な物資を届けてくれたり、ドネーション型のクラウドファンディングを通じて支援してくれたり、コミュニティーからの大きなサポートを受けました。 ただ生活をすることはできたのですが、家の中から手作りの物は一切なくなったまま。すると、家の中に人の気配がなくなっていることに気がつきました。でも、友人が作った食器や絵を持ってきてくれるたびに「この人もいるし、この人もいる」というように物がリマインダーになってくれて人の存在を感じ取ることができたんです。手作りのものが増えるごとに、家がどんどん“家(ホーム)”になっていく感覚がありました。手作りのものが持つパワーって本当にすごいんです。 ―今いる環境に寄り添うように、素直に生きていく 私とジェイが大事にしているのは、自分たちがいる環境に沿った正直な陶芸をすること。たとえば、私たちの陶芸は火を使いません。電気釜でも見た目も使い勝手も良いものを作ることはできるし、街に住む私たちの陶芸はこういうものだよっていうことを作品に反映させたいから。もし私たちが違う土地へ行けば自然とスタイルは変わると思いますし、常にその時の自分たちの等身大でいたいんです。大人げがないかもしれませんが、私は自分自身が心地良くいられないと人に優しくすることができません。だから、自分が無理せず自然体でいられるような環境に身を置くことをとても大事にしています。そのために、ずっと心地良い場所を探して動いてきたのだと思います。 私はマグが好きです。誰かの日常生活に入り込んで、日々触れられ、味や時間を感じられるものだから。私たちにとってDION CERAMICSのプロダクトは、お客さんやその先にいる人たちとのとのコンタクトポイントであり、人と人とをつないでくれるものです。そのつながりが生み出す縁や絆をすごく信じているし、それをエネルギーに代えてコミュニティーを育んでいきたいと思っているんです。 ■  rie / セラミックアーティスト・DION CERAMICS主宰 愛媛県出身。2001年に渡米し、大学・大学院で陶芸を専攻。その後大学院で同級生だったパートナーjayと共にセラミックブランド「DION CERAMICS」を始める。サンフランシスコベイエリアのカフェやレストランからの要望を受けてスタートしたマグカップがブランドの原点でありシグネチャーアイテム。常に等身大であることを大切に、現在はUrban Potteryをテーマにマグでつながるコミュニティーを育みながら活動中。instagram: @dion_ceramicsHP:DION CERAMICS公式サイト...

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暮らしを真ん中に、寄り添いながら育っていく / 中島デコさん

千葉県いすみ市でBROWN'S FIELD(ブラウンズ・フィールド)を主宰するマクロビオテック料理家の中島デコさん。デコさん一家と寝食を共にするスタッフたちがひとつの大きな家族として、持続可能で、自然に寄り添った暮らしを営んでいます。いつも暮らしを真ん中に置き、人や自然が有機的につながりあって広がってきたブラウンズフィールド。ここに至るまでの道のり、共同生活のこと、これから思い描く未来のことなど、デコさんの思いを語っていただきました。 ―東京を離れ、導かれるようにいすみへ まだ末っ子が歩き始めたばかりの1999年、私と夫は5人の子どもたちと2匹の犬を連れて、東京から千葉県いすみ市に引っ越してきました。何でもお金で解決する都市社会の仕組みに疑問がありましたし、土に触れ、自分たちが育てた季節のものを新鮮なうちにいただくような生活をしたいという思いが強かったんです。私が若い時から実践しているマクロビオティックには、「身土不二」(人間と土は一体で、暮らす土地で採れた旬のものを食べる)という考え方があります。それは、まさに私の思い描いていた形でした。そして、実践できる土地を探し始めたところ、たまたま空き家となっていた古民家を紹介してもらった場所がいすみ市だったんです。本当はもっと水がきれいで、温泉が近くにあるような場所を思い描いていたんですけれどね(笑)。 でも実際にいすみを訪れたら、平地で、海が近くて、日当たりが良くて、すごく気持ちがいい場所で。偶然にも父親のお墓が近くにあったこともあり、なんだか呼ばれているような気がして、すぐに引越しを決めました。あれから24年。東京に帰りたいと思ったことは一度もありません。種を播いて、育て、収穫したものを加工して食べる。そんな暮らしを目指して、子育てと農作業中心の日々が始まりました。私は東京生まれ東京育ちで農の経験はなかったし、まずは小松菜だけでも、大根だけでも採れたらいいな、そんなところからのスタートでした。 (写真)ブラウンズフィールド内にある「ライステラスカフェ」 ―時の流れとともに、少しずつ形を変えてきたブラウンズフィールド 料理研究家としていすみの暮らしを本やメディアで紹介する機会があったことで、いつからかいろんな人が訪ねてくるようになりました。せっかく来てくださっているしと、お話したり、ごはんを出したりしていたんですが、その間作業は止まってしまうわけです。これはなんとかしないとということで、納屋をリフォームして、金土日だけオープンするカフェを開くことにしました。マクロビオティックの教えに基づき、メニューは肉や魚、卵、乳製品、白砂糖、添加物を使用せず、自家製調味料で旬の野菜と穀物を使ったものに。その考えに共感してくださるお客さんがだんだんと増え、手が回らなくなってきたので、今は私の想いを繋いでくれている若いスタッフたちに任せています。 (写真)これまでのデコさんの書籍 さらに、農業体験と交流を目的とする「WWOOF」のメンバーを受け入れたことがきっかけとなり、ここへ学びにくる人、遊びにきた人が宿泊できる施設「慈慈の邸(じじのいえ)」を作りました。「WWOOF」の受け入れをやめた後も、ブラウンズフィールドの一員として私たちと寝食を共にしながら働くという制度は続いています。現在は農、カフェ、宿泊、イベント、物販、母屋など、それぞれの係の分業制になっていて、期間も短期、中期、長期と様々な形態のスタッフがいます。今はこのような形に落ち着いていますけど、その時にいるスタッフによってルールが変わることもあります。引っ越してきた時から、漠然といろんな人が出入りする風通しのいい場所になったらいいなとは考えていたのですが、明確な構想が最初からあったわけではありません。長い年月をかけて、自然と少しずつ今の形になってきたんです。 そうそう、うちのカフェは廃棄が出ないんですよ。もしお客さんが来なかったとしてもスタッフの食事としていただくことができますし、売り切れたとしてもそれはそれで嬉しいこと。料理に使った煮汁、出汁、ドレッシングの余りなんかも全てまかない用にリメイクしています。スタッフがたくさんいてくれるからこそ、廃棄ゼロが実現できる。これって気持ちのいい循環だなと思うんです。(写真)ブラウンズウィールドの農隊が中心になり育てている田んぼ。カフェ、宿泊、賄い、麹の1年分のお米を作っている。 (写真)ワークショップスペース「サグラダコミンカ」にある竈門(かまど)。玄米を1日浸水させてから薪で丁寧に炊いている。 ―笑顔で挨拶ができるように、自分のコンディションは自分で整える 様々なバックグラウンドを持つ人が集った生活ですから、もちろん色々なことがあります。お互いをリスペクトして、労り合わないと共同生活は成り立ちません。すごく基本的なことですが、大事なのは “ほうれんそう”、報告・連絡・相談です。私たちは、毎日ごはんを一緒にいただきながら、「おいしいね」とか「今日どうだった?」とか、お互いの状況を話したり聞いたりしています。人間ですから、落ち込むことがあるのは当然のこと。だけど、誰かひとりでも沈んでいると、全体のエネルギーも下がってしまう。だから、笑顔で挨拶ができるように自分のコンディションを自分で整えるという作業は、共同生活においてとっても必要なことなんです。 たとえば、今みんなの前で笑顔でいられないと思ったらひとりで散歩に行くとか、読書するとか、自分のご機嫌を自分でとって立ち直るためのケアをする。そうすることで、自分だけではなく、みんなが気持ちよく過ごすことができます。つまり、他の人を尊重することにもつながるんですね。もちろん自分だけで抱えずに誰かに話したり、相談したりしてもいい。共に暮らしているとお互い様々な部分が見えますけれど、その分つらいことは分け合えるし、楽しいことは二乗、三乗にもなるのです。(写真)宿泊施設「慈慈の邸」で働くスタッフ ―ブラウンズフィールドの中心にはいつも暮らしがある どうやったら持続可能なコミュニティが作れますか? なんて聞かれたりすることがあるのですが、ブラウンズフィールドの場合はコミュニティにしようとしてコミュニティになっているわけではなくて、家族の生活の続きの場として、みんなで助け合いながら育っていっているという感覚なんです。だから、いつだって中心にあるのは、暮らしのことです。 農的な暮らし、サスティナブルな暮らし、いろいろですが、焦点は常に暮らしにあって、だからこそ続いてきたのかなと思っています。梅の実がなったら収穫して梅干しをつくるとか、かぼすができたら収穫して加工するとか、米が実れば麹にして味噌をつくるとか、大豆を醤油にするとか。何があっても季節は巡ってきて、生活は続いていくものですから。今の季節を謳歌しつつ、来年、再来年でにできるお味噌のこと、それを食べるスタッフや家族、お客様のことまでを考えて、今手を動かしておく。ブラウンズフィールドは、そういうたんたんとした積み重ねの延長線上にあるんです。(写真)ヤギのお絹さんと天日干し中の梅。梅はお庭で採れた無肥料無農薬のもの。 今ブラウンズフィールドに来てくれるのは若い人が多いのですが、ゆくゆくは老若男女、体が不自由な人、どんなバックグランドの人も、みんなが持続可能な形で助け合える場をつくりたいと考えています。もう少し先のことですけれど、自分が入る老人ホームがあって、その隣に保育園があって、そのまた隣に助産所があって、生まれたり死んだりできる場っていうのかな。地域の中で同じ方向を向いている人たちが助け合って生きる、それこそが本当に豊かでサステナブルな暮らしなんじゃないかと思うんです。 パーマカルチャーはオーストラリアで生まれたと言われていますが、昔の日本の村社会はパーマカルチャーそのものだったわけじゃないですか。持ち出しせず、持ち入れもせず、そこで採れるものを循環させて。これからは、私たちなりの新しいパーマカルチャー、持続可能な村社会みたいなのをそれぞれの地域でつくることができたら、その先には豊かな社会が実現できるはずです。誰のことも排除せず、みんながお互いを受け入れて助け合う。それぞれやりがいがあることをして、それがパズルのピースのようにかみ合って全体が豊かになるような、そんな未来をつくれたらいいなと思うんです。 ■  中島デコ / マクロビオティック料理家 16歳でマクロビオティックに出会い、25歳から本格的に学び始める。1999年、千葉県いすみ市に田畑つき古民家スペース「ブラウンズフィールド」を開き、 世界各国から集まる若者たちとともに、持続可能な自給的生活を目指す。サステナブルスクールや各種イベント、ワークショップの企画運営をしつつ、国内外で、講演会やマクロビオティック料理講師として活躍中。2024年1月19日、『中島デコのサステナブルライフ~人も地球も心地よい衣食住・農コミュニティ~』(パルコ)が発売される。instagram: @deco_nakajimaHP:Brown's Field公式サイト Text&Edit :...

# COMMUNITY# ORGANIC# RELATIONSHIP#SUSTAINABLE#パーマカルチャー

持続可能な暮らしをデザインする / ソーヤー海さん

千葉県いすみ市でパーマカルチャーや非暴力コミュニケーション(NVC)、禅などのキーワードを通じて、本質的に豊かな暮らしを実現させるための活動を行っているソーヤー海さん。2016年には「パーマカルチャーと平和道場」として、自然とつながり、自分の手で暮らしをつくるための学びの場を立ち上げました。パーマカルチャーが実現された先には、どんな世界が待っているのでしょうか。後編では、ソーヤー海さんにパーマカルチャーの考えに基づいたハッピーな暮らしのつくり方について聞きました。 ―クリエイティブで自由な暮らしを手に入れよう 「楽しい、美味しい、美しい、自分らしい」― これは、活動仲間のフィルとカイルが、パーマカルチャーの原則をシンプルに表したものだ。この4つのキーワードを暮らしの中に取り入れるために、どんな暮らしをデザインしていこうか? そう考えただけで僕はワクワクしてくる。千葉県いすみ市で僕が主宰している「パーマカルチャーと平和道場」は、その実験と実践の場だ。この場所で家族と暮らしながら、日々トライアンドエラーを繰り返している。僕が道場で最初にみんなに教えたいのは、「食べ物を作ること、家を作ること、いい人間関係を作ること」。まずはその3つができれば、安心して自由に暮らすことができる。だって、それより大事なものはないでしょう? ―食べものを作る コスタリカのジャングルで生活をした体験を通して、いつか自分でも食べ物がそこら中になっているような楽園を作りたいと思い描いていた。食べ物はお店で買うものじゃなくて地球の恵みだということを子どもたちにも教えてあげられるしね。そして、当初荒地のようだったこの場所に、今ではパパイヤ、アボカド、レモングラス 、バナナなどが実っている。だけど、僕が目指しているのは100%自給することではない。大事なのは、どうやったら楽しく持続できるかということ。だから「地球って楽しいな!」とワクワクするようなセンスオブワンダーを散りばめたいと考えている。例えば、キッチンのすぐ側にハーブガーデンを作り、バジル、ミント、ニラ、山椒などを育てて、料理中に使いたいものがすぐに手に入るデザインにした。でも効率がいいだけじゃつまらないから、心が喜ぶような花を合間に植えている。人は生産性と効率化を追い求めても幸せにはなれない。だけど、そうやって小さなワクワクを増やしながら続けていくことができれば、いつのまにか循環する暮らしが無理なく実現していくと思うんだ。 (写真)上はバナナの木。下はキッチン横のハーブガーデン。 ―家を作る コロナ禍で時間があるからやってみようと思い立って、家族が暮らすための小屋を作った。かかった金額は、40万円弱。現代の暮らしでは、人は大金を出して家を買うけれど、その他の動物はみんな自分で家を作っているよね。人間だって、誰でも自分で家を建てることができるんだ。一回やってみると構造が分かるし、自信がつくから楽しくなって他にも作ってみたくなる。道具の使い方を覚えて、意識をそこに向けることができれば何だって手作りできるようになっていく。暮らしの技術を学ぶことで、お金に依存せず自由に暮らすことが可能になるんだ。失敗したっていいからまずは一歩踏み出してみよう。   (写真)上の小屋が海さんとパートナーの美紗子さんが初めてセルフビルドしたもの。下はワークショップで20人以上の参加者が建てた小屋。 ―人間をデザインする 僕たちは、一年中外でご飯を食べている。料理を作るのも外だ。そしてアウトドアキッチンには意外な利点がある。室内できれいなキッチンを保つのってすごくエネルギーがかかるよね。ここにはいろんな人が泊まりにくるし、求める清潔さの度合いは人によって違うから、それが時に対立の火種になってしまうことがある。だけど、アウトドアキッチンは動物が来たり、ダストが飛んできたりするから、そもそもきれいに保つことは難しい。そうすると「仕方ないね」ってみんなが納得して対立が起きにくくなるんだ。求める基準値を下げるだけで、グッとみんなのストレスが少なくなる。価値観があわない人を排除するのではなく、どうやったらみんなが心地よく過ごしていけるかを考えること。これが人間関係をデザインするということなんだ。 (写真)手作りの薪ストーブで料理をする美紗子さん ―循環を暮らしに取り入れる 循環しない暮らしには、マイナスの要素が増えていくものだ。例えば、ゴミ。人間以外の動物はゴミを出さないでしょう。自然界にゴミが存在しないのは、全てのものが自然の一部としてサイクルしているからだ。そういう生態系を理解して暮らしに取り入れることができれば、マイナスの要素をプラスに変えることができるようになる。生ゴミはコンポストで堆肥になり、その堆肥を使って作物を育てることができるし、地域で伐採された木や竹、廃材を使って調理した後、炭を使って土壌改良をすることもできる。また、太陽光を使ったソーラーオーブンで調理するとか、身の回りにある資源を使って自らエネルギーを生み出すことができれば、消費を減らすことだってできる。そうやって小さな循環が巡りはじめたら、暮らしは安心感に満たされて、どんどん豊かになっていく。そして、自分自身のパワーを感じるようになる。 ―重要機能をバックアップする パーマカルチャーには重要機能のバックアップという原則がある。何かあったときのために、生活に必要なものの予備を確保しておくということだ。雨水タンクはそのひとつ。天からの恵である雨水を溜めておけば、生活に必要な水を自給することができる。雨水タンクには、ファーストフレッシュフィルターをつけていて、埃や花粉など屋根の汚れがついた最初の汚い雨水をカットしてくれる仕組みになっている。消費生活では全てがブラックボックス化していて、自分の命のベースになっているインフラや食べ物がどういう仕組みで成り立っているのか分からない。だから何かトラブルが起きたら、専門家にお金を払って解決するしかない。生活コストが上がり、お金はもっと必要になる。これが消費者の残念なところだよね。誰も目で見てなんとなく理解して再現ができたり、何か起これば問題が特定できて解決ができたり、そういうシンプルで機能的なシステムがパーマカルチャーなんだ。自分の目の前で、自分が責任をもてるレベルの豊かな循環をつくりたいよね。  ―地球の恵みとつながりながら生きていく 意識が暮らしを変え、暮らしが意識を変える。意識と暮らしはセットで、どちらかだけを変えることはできない。僕たちはみんな自然の一部で、全てはつながっているシステムだと考えるのがパーマカルチャーだ。だからひとつ変えると全部が変わっていく。まずは、自然と自然の神秘を自分の暮らしに合うように少しずつ取り入れてみよう。この“少しずつ”というのが大事なんだ。やっているうちに、だんだんと自然の方から「あれやってみなよ、これもやってみなよ」って誘導してくれるようになる。そうすると自然と豊かな世界ができてくる。ドアを開けて目の前がコンビニだったら、お金がないと生きていけないでしょう。でも僕の世界では、ドアを開けると森なんだよ。だから「地球で生きている!」って感じなの。自然も人間もみんながお互いを生かし合って、地球で生きているんだ。井戸水や天水を飲む。そこにあるフルーツを食べる。そして、僕たちの命は、森に、地球に支えられているということが分かる。そうして僕らはハッピーになっていくんだ。 ■ ソーヤー海 / 共生革命家 東京アーバンパーマカルチャー創始者。1983年東京生まれ、新潟、ハワイ、大阪、カリフォルニア育ち。カリフォルニア州立大学サンタクルーズ校で心理学専攻、有機農法を実践的に学ぶ。2004年よりサステナビリティーの研究と活動を始め、同大学で「持続可能な生活の教育法」のコースを主催、講師を務める。元東京大学大学院生。国内外でパーマカルチャー、非暴力コミュニケーション、禅/マインドフルネス、ギフトエコノミーなど、さまざまな活動を行っている。いすみ市に「パーマカルチャーと平和道場」を立ち上げ、共生社会のための実験やトレーニングの場として展開している。二児の父。。。。著書 『Urban Permaculture Guide 都会からはじまる新しい生き方のデザイン』、『みんなのちきゅうカタログ』(英語版...

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パーマカルチャーで実現するハッピーな暮らし / ソーヤー海さん

千葉県いすみ市に暮らし、パーマカルチャーや非暴力コミュニケーション(NVC)、禅などのキーワードを通じて、本質的に豊かな暮らしを実現させるための活動を行っているソーヤー海さん。2016年には「パーマカルチャーと平和道場」として、自然とつながり、自分の手で暮らしをつくるための学びの場を立ち上げました。パーマカルチャーが実現された先には、どんな世界が待っているのでしょうか。前編では、パーマカルチャーとの出合い、そしてソーヤー海さんが描く豊かな世界についてお話していただきました。 ―僕は、コスタリカのジャングルで初めて地球と出合った 東京に生まれ、日本とアメリカを行き来しながら育った僕の人生を大きく変えたのは、9.11だ。それはちょうどカリフォルニア州サンタクルーズの大学に入学する直前の出来事だった。平和だと信じていた日々に、急に戦争というものが身近になってやってきた。と同時に、それまで漠然と思い描いていた、大学でいい成績を取って、いい会社に入って…といった未来図がガラガラと崩れていった。この現実を見ないふりなんてできないし、とにかくなんとかしないと。その一心で、反戦運動に加わった。 でもね、反戦運動って文字通り、反対する運動だからエネルギーがものすごく必要なんだ。圧力はかかるし、対立構造になりやすいからね。ピリピリとした活動を6年ほど続けたけれど、どこかでこれは持続可能じゃないぞと感じていた。そんな中で有機農業や自然農と出合って、そのポジティブなエネルギーに惹かれるようになった。そして、一度先進国を離れて生き方を見直したい、地球がどんな場所なのかちゃんと知りたいと思うようになって、コスタリカのジャングルに移住することに決めたんだ。ジャングルの生活は、ココナッツ、バナナやマンゴーが食べ放題。電気も水道もなくて、自分たちが生きるための食べ物を得ることが中心の日々だ。動物ってさ、みんな自然の中で「ただ食い」しているんだよ。お金を払って食べ物を得ているのは人間だけ。ここでの暮らしを通して、僕は初めて「地球と出合った!」と感じたよ。そして僕は生態系の一部なんだということも。だけど現実は、人間だけが自然と切り離された生き方をしている。人間ってなんだろう、生きるってどういうことだろう。そんなことを考えている時に出合ったのが、パーマカルチャーだった。パーマカルチャーとは、ものすごく簡単に言うと、自然の循環を取り入れて、人が豊かに生きていくための暮らしや社会をデザインすること。 その世界観にどっぷりはまった僕は、ジャングルを出てパーマカルチャーの実践地を訪ね歩いた。ニカラグア、キューバ、グアテマラ。各国のお百姓さんから学んだ後、ワシントン州オーカス島にあるフォレストガーデン「ブロックス・パーマカルチャー・ホームステッド」の研修生として2年間を過ごした。ここでは食べ物、水、エネルギーのことなど、暮らしにまつわることは何でも学ぶことができた。とにかく自由で、創造的で、まるで楽園のよう。なんてったってそこらじゅうに食べ物が実っていて、フルーツが降ってくるような場所だからね。この暮らしを実践できれば、お金に依存することなくみんながハッピーになれるじゃん。This is it. 僕の探していた豊かな世界がそこにあった。 ―パーマカルチャーによって実現する豊かな世界は、決してファンタジーなんかじゃない その頃、日本で3.11が起きた。原発事故があり、僕はこのことにどう応えるのか、自問自答した。僕も電力の恩恵を受けて生きているけれど、だからってこの問題を放置することは嫌だ。そして僕の答えは、権力が集中する都会にこそパーマカルチャーの価値を広げるべきだ、ということ。そうでなければ、この大きな問題を解決することは到底できない。そうして日本に帰国することを決めて、2011年に「東京アーバンパーマカルチャー(TUP)」を立ち上げた。屋上菜園を作ったり、空き地や河川敷に種を撒いたり、ワークショップを開いたり、メディアに取り上げてもらったりして、いい活動はできていたのだけど、だんだんと自分自身が都会のパワーに飲み込まれていくのを感じた。 いつの間にか発信することが活動の中心となっていき、パーマカルチャーを体現した生活からは遠ざかってしまっていたのだ。このままでは僕もピラミッドゲームの一部になってしまう。そうではなくて、僕自身がより健全で、自分らしい暮らしをしながら、日本だからこそできる素晴らしいパーマカルチャーの世界を作っていけばいいんじゃないか。パーマカルチャーによって実現する豊かな世界は、決してファンタジーなんかじゃない。そうやって僕が実践する世界をいろんな人に見に来てもらい、リアリティを体感してもらえたら、その波紋はあちこちに広がっていくだろう。そう考えて、2016年に千葉県いすみ市へ移住を決めた。そして、活動の場となる築150年以上の古民家のある2700坪の土地に出合い、グリーンズの鈴木菜央さんと共に、全ての命が大事にされる社会のための実験と実践の場である「パーマカルチャーと平和道場」を立ち上げた。そして実際に本当に多くの人がここへ訪れてくれるようになったのだ。 ―目指すのは、消費者から創造者になるということ 「ヒューマニティを取り戻そう」というのが、平和道場のミッションのひとつだ。それは、人間の本質に添うような文化や暮らしを取り戻していくということ。目指すのは、消費者から創造者になるということだ。僕らが今生きる世界は、何も考えなければ消費者になっていくシステムになっている。子どもの時から学校でそう教育されているからね。消費者というのは、誰かがつくったものを選ぶしかない上に、その何かを手に入れるにはお金が必要になる。今の社会ではより効率化して、より生産性をあげて、より多くのお金を得ることに価値が見出されているよね。だけど、人はその価値では幸せにはなれないんだ。いくら生産性が上がろうと余裕が増えることはないし、さらに余裕がなければ豊かな暮らしを味わうことはできないから。これが今の人類が抱えている残念なパラドックスだと思う。比べて、自然の循環というのは、人間が関わっても関わらなかったとしても勝手に生物多様性が生まれ、勝手に再生され、勝手に循環していく。このサイクルをうまく暮らしに取り入れることができれば、余裕のある時間はどんどん増え、心身もどんどん健康になって、本当に自分がやりたいこと――例えば、家族と過ごしたり、世の中に貢献したり、そういうことに費やせるハッピーなエネルギーと時間が増えていく。この暮らしの循環をデザインすることがパーマカルチャーなんだ。僕は誰もが創造者になることができると信じている。みんなそのパワーを持っているのに、それを表現する時間や心の余裕が今はないだけだ。でもさ、とにかくやってみようよ。何から始めてもいい。暮らしを変えて、意識を変えて、やがては社会を変える。誰かが始めれば勝手に広がっていくんだよ。そして循環し、ハッピーが増えていく。それが僕がワクワクする未来の世界なんだ。 ■ ソーヤー海 / 共生革命家 東京アーバンパーマカルチャー創始者。1983年東京生まれ、新潟、ハワイ、大阪、カリフォルニア育ち。カリフォルニア州立大学サンタクルーズ校で心理学専攻、有機農法を実践的に学ぶ。2004年よりサステナビリティーの研究と活動を始め、同大学で「持続可能な生活の教育法」のコースを主催、講師を務める。元東京大学大学院生。国内外でパーマカルチャー、非暴力コミュニケーション、禅/マインドフルネス、ギフトエコノミーなど、さまざまな活動を行っている。いすみ市に「パーマカルチャーと平和道場」を立ち上げ、共生社会のための実験やトレーニングの場として展開している。二児の父。。。。著書 『Urban Permaculture Guide 都会からはじまる新しい生き方のデザイン』、『みんなのちきゅうカタログ』(英語版 Our Earth Our Home)YouTube:TUPチャンネルHP:東京アーバンパーマカルチャー         パーマカルチャーと平和道場 Text&Edit...

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SISIFILLEコミュニティーイベント開催レポート

先日、東京・代々木上原でSISIFILLEコミュニティーイベントを開催しました。ブランドのはじまりから8年、リニューアルから1年が経った今、私たちのものづくりとその背景を紹介し、私たちが追求する「やわらかさ」を改めて皆さんと共有させていただきました。会場1階でプロダクトの展示とインスタライブ、2階でトークショーと上映会を行いました。 ―イベントの概要と当日の様子 ーSpecial contents 01ーインスタライブ COMMUNITY CONVERSATION with cumiテーマ:「自分自身を大切に。ーわたしたちが心身ともにやわらかくあるためにはー」 ゲスト:  森田敦子さん (植物療法士/サンルイ・インターナッショナル代表)大学を卒業して、航空会社の客室乗務員の仕事に就くも、ダストアレルギー性気管支端息を発病。その治療として植物療法に出会い、驚くほどの効果を実感。本場のフランスで学びたいと、航空会社を退職し渡仏。フランス国立パリ13大学で植物薬理学を本格的に学び、帰国後、植物療法に基づいた商品とサービスを社会に提供するため、1998年1月、会社を設立しコスメ開発やスクール(ルボア フィトテラピースクール)を主宰。著書に「成分表示でわかる化粧品の中身」(2001)、「自然ぐすり」(2016)、「潤うからだ」(2017)がある。 SISIFILLEのインスタグラムアカウントで定期的に行なっているインスタライブ。今回はゲストの森田さんにイベント会場にお越しいただき、森田さんの主宰するWOMB LABOさんとのコラボ配信でお送りしました。周りをやわらかくするためにも、まずは自分自身を大切にしてあげることが必要。森田さんが様々な経験を経て得られた心や体をケアすることの大切さ、植物療法という視点でのケア方法についてなど、いろいろとお話しいただきました。「まずは自分だよ。誰かのためにっていうのは一旦やめよう。」という森田さんの言葉はとてもシンプルですが、現代に生きる私たちが疎かにしてしまっていること。自分自身を大切にする、ケアする、それが基本。その先に誰かのためという行動が生まれ、やわらかい世界につながる。私たちのブランド理念にも紐づく、心に残るお話でした。 アーカイブはこちらからご覧ください。 ーSpecial contents 02ートークショー 共生革命家ソーヤー海さん × SISIFILLEブランドコミュニケーター本田テーマ:  SOFTEN THE WORLD. SISIFILLEとパーマカルチャー、それぞれが目指す未来にあるやわらかい世界とは?」ゲスト: ソーヤー海さん東京アーバンパーマカルチャー創始者。1983年東京生まれ、新潟、ハワイ、大阪、カリフォルニア育ち。カリフォルニア州立大学サンタクルーズ校で心理学専攻、有機農法を実践的に学ぶ。2004年よりサステナビリティーの研究と活動を始め、同大学で「持続可能な生活の教育法」のコースを主催、講師を務める。元東京大学大学院生。国内外でパーマカルチャー、非暴力コミュニケーション、禅/マインドフルネス、ギフトエコノミーなど、さまざまな活動を行っている。いすみ市に「パーマカルチャーと平和道場」を立ち上げ、共生社会のための実験やトレーニングの場として展開している。二児の父。。。。著書 『Urban Permaculture Guide 都会からはじまる新しい生き方のデザイン』、『みんなのちきゅうカタログ』(英語版 Our Earth...

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私らしくあるための居場所づくり / 灰色ハイジさん

サンフランシスコで家族と暮らすデジタルプロダクトデザイナーの灰色ハイジさんには、周囲になじめずひきこもりになった中学生時代があります。そして、当時のハイジさんが自分の居場所を見出したのはインターネットの世界でした。その経験がデザイナーとしての今の自分につながったという彼女の半生には、自分らしい居場所づくりのヒントがありました。 ーインターネットを通じて見つけた”私の居場所“ 私の故郷は、新潟県の小さな村です。小学生の頃からなんとなく周囲と馴染めないなという感覚はあったのですが、だからといってそれが苦なわけでもありませんでした。漫画が大好きで、ファンタジーの世界に夢中だったんです。小学校を卒業すると、片道一時間半かかる県内の中高一貫の女子校に進学しました。すると、学校は都会的な雰囲気で溢れていて、周りの子たちはブランドの話なんかをしているんですね。村で育った私には、すごくカルチャーギャップでした。初めて触れる世界に戸惑い、数日欠席したらなんだか行きづらくなってしまって。そのまま不登校になり、丸2年半ほどひきこもりの生活が続きました。 そんな私を見かねたのか、ある日、父親が自分の友人の家に私を連れて行き、そこでインターネットというものを見せてくれたんです。ちょうど一般家庭にもネットが普及し始めた2000年頃のことでした。チャットの画面をバンと見せられて「これを使えば、日本全国の人と話せるんだぞ」と。それからまもなくして自宅にもネット回線が通ると、どんどんインターネットの世界にのめり込んでいきました。ネットの中だと趣味の合う人に会える確率が高かったし、彼らと自分の好きな話ができるというのがすごく楽しくて。それに自分のペースでタイピングできるテキスト会話というコミュニケーションにも心地良さを感じました。気づけば日本全国の人とチャットを通じてコミュニケーションを取り、たくさんの友達ができていました。 ひきこもりという一方で、中2の頃にはオフ会に参加するために一人で東京へ出かけるほどのバイタリティを持つ側面も持ちあせていました。ひきこもりとはいえ、一人きりでいたいとか、世間全体から隠れたいということではなかったんですね。村や中学校の中に居場所を見つけることはできなかったけれど、ネットのような全く違うコミュニティに触れたら心地の良い場所と出合うことができたんです。子どもが自分の力で住む場所や環境を変えることは難しいですよね。でも、インターネットの世界では自分が物理的に置かれている場所や環境に依存することなく別のコミュニティにつながることができます。子どもの私にとって、違う世界を見せてくれるインターネットとの出合いはとても大きいものでしたし、高校に入ってまた環境が変わると、学校へも行けるようになりました。 ー14歳の私の “好き”が仕事になるまで 中学生でチャットに熱中する一方で、クリスマスに買ってもらったペンタブレットで絵を描くことも好きでした。描いた絵はネットで公開していたのですが、次第に自分の絵だけではなく、他の人たちからも絵を募集し、イラスト展覧会を企画して運営することも始めていました。今思うと、当時から広い意味でデザインという行為をしていたなと思うのですが、その頃からこういうことを仕事にしたいな、デザイナーっていいなと漠然と思い描いていました。「灰色ハイジ」というハンドルネームをつけたのもこの頃です。新潟の雪って白じゃないんですよ。日本海側の冬は空も地面も全部灰色。だから灰色というのは、私が見ていた景色の色なんです。それでかわいい名前をつけたいなといろいろ組み合わせてみて良かったのが「灰色ハイジ」。14歳のときにつけたその名前を今もずっと使い続けています。 (写真)ハイジさんが住んでいるサンフランシスコの空も、取材日は霧がかっていて灰色に。 高校卒業後は京都造形芸術大学(現 京都芸術大学)に進学し、その後東京でウェブデザイナーとして就職しました。それからいくつかの転職を経て、今はアメリカの会社でブランド&プロダクトデザイナーとしてアプリなどデジタルプロダクトのデザインをしています。アメリカに引っ越したのは結婚がきっかけです。その頃私は日本で転職したばかり、彼はサンフランシスコで働いていたので、自然と遠距離結婚になりました。そもそも日本とアメリカで離れている状態でリレーションシップが始まったので、離れて住むことに抵抗はありませんでした。お互いに好きな仕事ややりたいことをできるのはいいよねという感じで。ところが、1年半ほど経った頃、彼ともう少し一緒にいたいという気持ちが強くなってきたんです。それで移住を決めました。 (写真)2020年に出版されたハイジさんの書籍「デザイナーの英語帳」。日本語版と韓国語版 移住後に娘が生まれ、今は家族3人暮らしになりました。私も夫もリモートワークで自宅を職場にしているのですが、週に1回、子どもをデイケアに預けている間に一緒にランチやお茶をしながらチェックインする時間を作っていて、今週はお互いどんな家事をしたのか、今何が大変でどれぐらい辛いのか、みたいなことをシェアしています。この時間は子どものことではなく、夫婦のことにフォーカスしています。長く一緒にいればいるほど、「こう思ってるんだろうな」とか「言わなくても分かるでしょ」となりがちですが、あえて口に出すことってすごく大事だと思うんです。夫婦関係ってどうしても波があって、良い時もあれば険悪な時もある。でも、私たちにとっては状況や感情をシェアできる関係にしておくことが、夫婦関係を良好に保つ秘訣になっているのだと思います。 子育ては楽しいですが、自分の時間が欲しいと思ったときに仕事の存在は欠かせません。もともと好きなことを仕事にしているので本当に楽しいんです。一方で、最近は趣味が欲しいなと思っていて。育児と仕事の両立がうまくいかないと、心がすさんでしまうことがあるじゃないですか。だから第三の何かがあることで、もしかしたら生活のバランスがより良くなるかもしれないって。どんな趣味でもいいのですが、逆にどんなことを選んでもデザインとつながっていく気がするんです。どこまでいっても最後はデザインのことが頭に浮かぶんですね。中学生でデザインというものに出合い、そこからずっと一筋。最近、もし今の職業じゃなかったら何をするかなと考えてみたのですが、全く想像がつきませんでした。早くから好きなことに出合い、迷いなく突き進んでこれたのはラッキーだったなと思います。紆余曲折の中で自分の居場所を模索し続けたからこそなのかもしれません。 ■ 灰色ハイジ / デジタルプロダクトデザイナー 新潟県出身。サンフランシスコ在住。プロダクトスタジオ All Turtles のブランド&プロダクトデザイナー。著書に『デザイナーの英語帳』(ビー・エヌ・エヌ新社)がある。現在、ニュースレター版のデザイナーの英語帳も配信中。HP: デザイナーの英語帳 (https://eigo.substack.com/)Instagram: @haiji505 Text&Edit : Nao KatagiriInterview:cumi

# COMMUNITY# 自分らしく生きる

更年期に取り入れたい植物療法「フラワーエッセンス」

誰しもが通るライフステージでありながら、これまであまりオープンに語られてこなかったメノポーズ(更年期)のこと。健やかに更年期を乗り越えるには、正しい知識や心構えを身につけておくことが大切です。今回は、ご自身もメノポーズと向き合っている最中だというコミュニティハーバリストのPai Miyuki Hiraiさんに、メノポーズとの付き合い方、そして症状を和らげてくれるフラワーエッセンスについてお話ししていただきました。 ―フラワーエッセンスを通じて自然とコネクトする メノポーズは「ゆらぎ期」とも言われるように、女性ホルモンのバランスが崩れることで敏感になったり、不安定になったりと心身のバランスを崩しやすい時期です。不安定さを感じる時は、自然とつながることで心身のバランスを整える「グラウンディング」が有効。山に入ったり、土に触れたり、植物と話したり、自然とコネクトすることで人間本来の力を取り戻すことができます。そして、自分も自然の一部であることを感じることで、今起きている変化を素直に受け入れることができるかもしれません。また、今自分はどんな状態にあるかなと観察したり、心の声に耳を傾けたりすることも大切です。更年期症状の代名詞であるホットフラッシュはイライラしている時に出やすくなるなど、更年期の症状は精神状態と密接に関わっています。 更年期のイライラや不安を緩和させるケアとしてオススメなのが、フラワーエッセンス。フラワーエッセンスとは植物が持つエネルギーを水に転写したもの。植物のエネルギーを利用して精神や心に働きかけてくれるフラワーエッセンスはメノポーズととても相性が良く、また手軽に自然とつながれるツールでもあります。 私がフラワーエッセンスを作るときは、水を入れたグラスを持ってコネクトしたいと感じたお花の側に座って目を瞑り、30分から1時間ほどかけてお花からのメッセージを受けとります。植物の有効成分を抽出させるティンクチャー(チンキ)とは違い、媒介者(作る人)を通じて植物から受け取ったメッセージが転写されるのです。そう聞くと、スピリチュアルだとか、なんだかあやしいと感じる人もいるでしょう。もし肯定的に受け取ることができないのであれば、今のあなたはフラワーエッセンスを必要としていないということ。無理強いする必要はなく、必要だと感じるタイミングに取り入れてほしいなと思います。 (写真右から)Dessert Alchemyのオレゴングレープ、Mighty Thoughtful Medicineのレッドウッド、ALASKAN essencesのジェダイトジェイド(全てPaiさん私物のフラワーエッセンス) ―メノポーズに取り入れたいPaiさんオススメのフラワーエッセンス -オレゴングレープ 恐怖心や不安感などからリリースし、バリアを解いて自分や人を信じることを思い出させてくれる。ホルモンのバランスを保ち、女性性を取り戻すサポートをしてくれる。 -レッドウッドグラウディングするのを助けてくれる。 -ジェダイトジェイド平和・バランスを保ち、イライラしたり、揉め事やトラブルなどに巻き込まれたときに乗り越えるのを助けてくれる。現状を受け入れ、本当の自分の良さを引き出す。 -フラワーエッセンスの取り方-1日3〜4回、1回に3〜4滴を目安に、直接口に滴らすか、飲み水などに入れて摂ります。1ヶ月を目安に続けてみてください。  ―更年期とポジティブに付き合うには メノポーズという言葉を聞いてみなさんはどんな印象を持つでしょうか? 世の中には、歳を重ねることをネガティブに捉える人は少なくありません。そのせいか、更年期に起きる心身の変化を受け入れることができない人も多いように感じます。例えば、閉経を迎え、「女性性が失われるのでは」と不安になる人もいるかもしれません。私は自分自身のペリメノポーズ(プレ更年期)からメノポーズを通して、女性性の終わりではなく、むしろ「ここからが新しいはじまりだ」と感じました。社会的な立場として定義付けられた“女”や“男”ではない、ジェンダーを超えた存在に近づくような感覚。それはもしかすると人間の一番美しい形なのかもしれないと思ったんです。 更年期は誰にでも訪れるものなのに、世の中では“隠すべきもの”として扱う風潮がまだまだあります。一方、私の住むサンフランシスコのベイエリアでは、「もっとオープンに話をしようよ」という空気感がどんどん広がってきています。私が参加している40~50歳の女性が集うコミュニティでは、月に1度集まってお互いの状況をシェアしていて、そこでは自分自身や家族、暮らしのことなど何でも話をします。アメリカでは自分の考えていることを人前で話す機会がたくさんありますが、私は日本で育ちそういう環境に慣れていなかったこともあり、最初は個人的な話をすることに戸惑いがありました。でも、いざ心の声を口にしてみると、その行為自体がヒーリングにつながるということに気づいたんです。 メノポーズのことも決して不幸自慢ではなく「私は今こうなの」とオープンに話したり、また他の人たちの話を聞いて「私だけじゃないんだ」と力をもらったり。私がメノポーズやエイジングをポジティブに受け入れることができたのは、そういう場所があったからこそ。更年期に限らず生理や性の悩みもそうですが、女性が心を閉ざさずにもっとオープンになっていくには、安心して話をすることができる人たちがいて、お互いに助け合っていけるコミュニティが必要です。そしてそういう場が増えていくことは、女性が前に出ることや意見を言うことを嫌うこれまでの封建的な社会をも変える力になると信じています。 ■ Pai Miyuki Hirai / コミュニティーハーバリスト 1997年渡米。ニューヨークを拠点にフォトグラファーとしての活動を始める。2001年に帰国し、中目黒にあった「gas-experiment!(後の大図実験)」を拠点に写真家として活動。その後自らもメッセンジャーとして働きながら仲間たちの写真をドキュメントする。2012年に再渡米。現在は母であり、サンフランシスコにて植物と宇宙のエネルギーとつながりながら、コミュニティーハーバリストという肩書きでみんながより良い生活を送るお手伝いをしている。 instagram: @mighty_thoughtful_medicine...

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食でつながるコミュニティーの環 / 八尋永理子さん

アメリカ西海岸のバークレーに店を構えるレストラン「Chez Panisse シェ・パニーズ」は1971年のオープン以来、ローカルの生産者が育てた新鮮でサステナブルなオーガニックの野菜や果物をメインに調理し消費者へ届ける「Farm to table農場から食卓へ」という考え方を世界中へ広めてきました。シェパニーズで働いて8年になるというペイストリーシェフ八尋永理子さんのお話からは、食と人、そして人と人が豊かにつながる“やわらかな世界”が見えてきました。 ースタッフはシェ・パニーズファミリーとしてお互いに支え合う --永理子さんはアメリカに長く暮らしていますよね。どんな流れでペイストリーシェフという職に辿り着いたのでしょうか? 「英語ができたら世界中の人と話せていいな」という単純な理由で留学したんです。最初は2年ぐらいで日本へ帰るつもりでいたのですが、気がつけばもう28年。料理人になる前は、和紙のお店で働いたり、製本やアパレルでの仕事をしたりしていました。出産を機に仕事を辞めたのですが、娘がプリスクールに行くタイミングでシェ・パニーズで働いていた友達が声をかけてくれてインターンとして働き始め、実際にキッチンに入ってすぐに「これだ!」と思いました。 --お菓子作りのどんなところに魅力を感じたのですか? お菓子作りって、工程がすごく細かいですよね。スイーツが大好きで、家でもよく作る…というタイプではないのですが、やってみたら上手にできたんです。元々細かい作業が好きで、手先も器用なので向いているかもしれないなと。それに、お砂糖が足りなかったり、ミックスの順番を間違えたりとその過程が少しでもずれてしまうと良い完成形にならないというところにすごく面白さを感じました。そのサイエンスな感じが自分に合うんですよね。シェ・パニーズでは毎日旬の果物をメインにデザートを決めるので、季節ごとにレシピを考えるのも楽しくて好きです。 --これほど有名なレストランでありながら、未経験でもチャレンジさせてもらえる環境があるということに驚きました。  もちろん料理学校を卒業した熟練のシェフもいますが、私のようにお菓子作りに興味があるとか、とにかく世界中から様々なバックグラウンドの人が集まってきているんです。きっちりとしたルールはないけれど、やりたいことやパッションを持っている人を受け入れてサポートする体制が整っていて。10代から60代までと幅広い年齢のスタッフがいますが、みんなアリス(※)のフィロソフィーに寄り添っていて、価値観や目標が近いので年齢関係なく共感しあえる。だから仲が良いんですよね。シェ・パニーズではスタッフミールの時間がとても大切にされています。座ってあれこれ話しながら食べる時間をみんなが楽しんでいるので、アリスはスタッフにその時間を大事にし続けてほしいと願っているんです。※シェ・パニーズの創始者・オーナーであるアリス・ウォータース。オーガニック、スローフード、地産地消、食育の大切さなどを提唱する食の革命家。(写真)スタッフの休憩用にと設けられた居心地の良いスペース ―今日永理子さんにレストランやオフィスを案内していただいて、働いている人たちがすごくお互いを尊重し合っているなという印象を受けました。  ここでは、一度働いたらファミリーの一員という考え方があります。メンバーや家族として、人としてすごく大切にしてくれるんです。例えば、病気になって暫くの間仕事ができなくなってしまったスタッフがいたら、その人のためにファンドレイズ(※)しようとか、そうやってお互いを気遣うということがごく普通のこととしてありますね。※活動を支える資金を募ること (写真)オフィスの入り口に飾られたシェ・パニーズファミリーの写真 (写真)レストラン2階から見える景色 ーシェフはファーマーとその作物を惹き立たせるためのヘルパーのような存在  --パンデミックのときには、いち早くテイクアウトを始めて、専属ファーマーたちの暮らしを守っていましたね。 パンデミックになってアリスが一番気にしたのはファーマーたちのことでした。レストランが開かないということは、彼らの収入もゼロになってしまうということ。それで彼らの収入源を絶たないために始めたのがテイクアウトと野菜や果物の詰め合わせボックスの販売です。ボックスは何が入っていても一箱あたりの価格は一定にして、ファームの収入が安定するようにしました。シェ・パニーズは、ファーマーたちがいてこそ成り立っている。そのことはスタッフの共通認識として強くあるので、生産者とのつながりはものすごく深いものがあります。 --レストランで提供される料理からも、ファームへのリスペクトをすごく感じます。 私たちシェフはファームから届いたその日の食材を見てメニューを考えます。いかに食材に手を加えず、どう味を引き出そうか。この食材はどう調理すると一番おいしい形でお客さんに出せるのか。それは私たちの永遠のテーマでもあります。 --シンプルな料理だからこそ、素材そのものの味を楽しむことができて、さらにシェフたちが出し合ったアイディアが引き立っているんですね。  フレンチを基本としていますが、素材にたくさん手を加える料理はほとんどないですね。カリフォルニアの食材はそのものの味がすごく良くて、そのまま食べれるほど美味しいんです。一方、シンプルな料理だからこそ、素材選びには命をかけています。それはシェ・パニーズに入って誰もが一番初めに習うことです。例えばイチゴが100個ある中で、おいしいものをひたすら選ぶというような仕事であるとか。でもそれを続けているとだんだん食材から語りかけてくるようになるんです。 --オーガニック野菜を使ったシンプルな料理や、地産地消の考え方がこのエリアに強く根付いているのを見ると、シェ・パニーズがこれまで地域で実践してきたことの大きさを感じます。 お客さんから料理について「これどうやって作るの?」とか「この食材はどこの?」なんて聞かれることもあるのですが、シェ・パニーズはすごくオープンなので、「塩茹でしただけだよ」とか、「そこのファーマーズマーケットで買えるよ」とか気軽に答えるんですね。そうすると次に来てくれたときに「あれ、やってみたよ」と教えてくれたりして、レストランでの体験が家庭の料理や地域の生産者に還元されていることを実感できて嬉しくなります。また、近隣の人が収穫された野菜などを私たちが料理にして「これはあなたが持ってきてくれたレモンで作ったタルトよ」みたいなこともよくあって、本当にいいコミュニティだなと思います。 ー大好きな人たちと、美味しい食べ物を囲んで、楽しい時間を過ごすことが幸せ --永理子さんは家ではどんな料理を作るのですか? シェ・パニーズで作る料理よりもさらにシンプルです。トマトを輪切りにして塩かけるだけとか、お豆腐にお醤油かけるだけとか。だからこそ旬なもの、素材そのものの味を大事にしています。でも一番ホッとするのは、やっぱりお味噌汁とご飯なんですよね。そんなに頑張って手をかけなくても、そういう安心できるようなご飯を作れたらいいんじゃないかなって思います。 --作物を育て、そのものの味を楽しむということは、アリスさんがエディブルスクールヤード(※)を通じて伝えようとしていることでもありますよね。 そうですね。子どもの頃、鳥取に住む祖母を毎年訪ねていたのですが、つくしや野草を摘んで調理していたんです。今考えるとすごくスペシャルだったなと思うのですが、そこではそれが日常の風景だったんですよね。祖母は野菜もお米も自分で作っていて、彼女の育てていたスイカの味は今でも忘れられません。今ファームで同じような安心感を感じるのは、そういうルーツがあるからなのかなぁ、なんて思ったりもします。※アリス・ウォータースが立ち上げた、校庭の一部を菜園にし、畑から食卓まで繋がるいのちの学びとして、子どもたちが土に触れ、育て、収穫し、料理して、共に食べる場をつくるプロジェクト...

# COMMUNITY# ORGANIC# SOFTNESS#SUSTAINABLE

優しさの連鎖が叶えるポジティブな循環 / 木津明子さん

自身のライフステージの変化をきっかけに、こどもの未来を明るく照らすようなコミュニティーを作りたいと一念発起し、地元である横浜市に「こども食堂 レインボー」をオープンしたスタイリストの木津さん。仕事に育児に、こども食堂の運営にと忙しい日々を送りながらも、彼女の周りはいつも明るくてハッピーなムードで溢れている。そんな木津さんが思い描く地域を巻き込んだ新しい取り組みと、そこで生まれたポジティブな循環の可能性について話をお聞きました。 ー「自分の不安=世の中の不安」と思ったことが行動の始まり --「こども食堂レインボー」を始めたのは、木津さんがシングルマザーになったことがきっかけだとお聞きしました。 木津:はい。区役所で児童手当など子ども関連の説明を受けたとき、なんとなく分かってはいたんですけど、改めてひとり親の過酷な状況を知ってショックを受けたんです。子どものためにも仕事は頑張りたいけれども、頑張るほど負担が大きくなるのが現実なんですよね。あまりにもびっくりし過ぎて「本当にみなさんそれでやっているんですか……!? 」と聞き返してしまったほどです(笑)。それで、その帰り道に「なにか自分にできることはないかな」と思って、こども食堂(※)をやることを決意しました。 ※こども食堂とは、子どもやその保護者、地域の住民に対して無料または低価格で栄養のある食事や温かな団欒の場を提供するために生まれた社会活動。 --自分の生活に不安を感じたタイミングで、逆に視野が広がったという部分が興味深いです。 木津:その時に自分が感じた不安から、子ども達の未来、日々の食事など、今までずっと気になっていたことに向き合う時が来たんだなと思いました。周りからの影響も大きかったですね。今はレギュラースタッフとしてこども食堂の活動を支えてくれているメンバーの話なんですけど、「+IPPO PROJECT」(※)という活動をやっている友達がいて。私はそのプロジェクトの「一歩踏み出す」という姿勢にすごく感化されたんです。昔の自分は怖かったり、悲しかったりするニュースがあると、つい目を逸らしたくなってしまうようなところがあったんですよね。でも「ちゃんと自分の目で見て、進んで行かないといけないよね」と改めて思わせてもらったし、背中を押してもらいました。  ※ファッション業界をベースに活動する女性3人が始めたプロジェクト。児童養護施設などを巣立った人たちのその後を支えるアフターケア相談所と手をとり合い、ファッションの持つポジティブな力をもとに、さまざまな形で社会問題につなげる活動をする。  --様々な選択がある中で、こども食堂を選んだ理由はありますか?木津:私自身、元々料理をしたら多めに作って「食べに来る?」と周りの人に声をかけるようなタイプで。今でも近所に住む両親にはよくご飯を作って持って行きます。私の母はすごく褒め上手で「あっこ(木津)は仕事もこんなに頑張っているのにちゃんと育児もして、ご飯まで作って偉過ぎる〜!」とか、こっちが嬉しくなる言葉をかけてくれるんですよ(笑)。料理も好きだし、人に喜んでもらえるのも好きなので、自然とたどりついた形なのかなと思います。 --ゼロの状態からこども食堂をオープンするまでにはいろいろとあったと思いますが、どのように体制を整えていったのか教えてください。 木津:場所が決まってからは色々と早かったです。私はあまり建設的に物事を考えるタイプではないので、周りの人に助けてもらいつつ、準備を進めていきました。とにかく初めてのことだらけだったので、まずは体当たりじゃないですけど、場所を探すところから始めました。その結果、洋光台の町の窓口「マチマド」さんにレンタルスペースを借りることになり、そこでのやり取りをきっかけに現在のスペースを紹介してくれたUR新都市機構の方ともつながることができました。そして地域ケアプラザの方もこども食堂ができるのを喜んでくれて、近隣の学校に代理で手紙を出してくださったり、いろいろサポート体制を整えてくれましたね。地域の協力体制があったのは大きかったです。あとは友人達の心強い協力に支えてもらいました。みんなそれぞれに仕事や家族のこともあるのに、事前の準備からお店の運営まで喜んで力になってくれて本当にありがたかったです。最初は「全部一人でやるぞ!」と意気込んでいたんですけど、それは到底無理な話でした。 (写真)こども食堂レインボーの様子 --準備期間とオープンしてからで心境の変化などはありましたか? 木津:実際に始めてからの方がいろいろ感じること、分かることが多かったです。初日を終えて、まずは自分の意識をガラッと変えていかないとだめだと痛感しました。最初は「救ってあげたい」という気持ちから始まったんですけど、その考え方自体が大きな間違いでした。本当に必要な人に食べに来てもらいたいという思いがあったので事前にあまりアナウンスをしていなくて、初日はお客さんが少なかったんですよね。チラシを駅前に配りに行った時に感じたことは、楽しくて明るくて、ポジティブな循環が生まれる場所づくりをしていかないと本当に届けたい子どもたちにまで届かないなということ。それに食堂と名前がついているからには活気も必要だなって。今振り返ると、その時の気づきはとても重要でしたね。そこからみんなで方向性をしっかり意識して軌道修正できたことが今のこども食堂に紐づいているんじゃないかと思います。 ー間口を広げることで、あらゆる人につながる場所を作りたい --その意識の部分についてもう少し詳しくお話していただけますか? 木津:こども食堂に対して“後ろめたい”というイメージを持つ人って多いと思うんです。ビラ配りをしている時にもそれをすごく感じました。好意的に受け取ってくれる人ほど「素敵なことですね。でも、うちは大丈夫です」って言うんですよ。「だって、困っている人が利用する場所なんでしょ?」と。そのたびに、きちんと私たちが考えるこども食堂の話をするようにしています。人からちゃんとしているように見られたい、という気持ちは私にもあるし、すごく理解できるんです。でも、ひとり親に限らず、子育てをしている人って毎日すごく大変じゃないですか。だから子どもたちだけではなく育児に関わる全ての人たちにこども食堂に来て少し楽をして笑顔になって欲しいんです。そこで心に余裕が生まれたら周りにも優しくなれるかもしれない。そうやって優しさの循環を作るきっかけになりたいんです。まずは子ども達にお腹いっぱいになって幸せになってもらうのが第一ですが、それに限らずいろんな人が普通に利用して、明るくて楽しい場所として定着していって欲しい。間口が広がることで、少しでも多くの人の気持ちを補うことができればという思いでいます。  --仕事や家庭があっての活動ということで体力面でもかなりハードかと思いますが、原動力はなんですか? 木津:体力の話だけでいったら結構ハードです(笑)。でも、なんか毎回終わった後にすごく元気になっているんですよね。これは私だけではなくスタッフ全員が共通して感じていることみたいです。とにかく終始みんながよく笑っているんですよ。子どもたちからもらうエネルギーは本当にすごくて、どんどん元気になる!慌ただしい日々ですが、みんなそれぞれ意欲的に楽しんでやっています。 --「こども食堂レインボー」はInstagramでの発信も積極的に行なっていますが、反応はどうですか? 木津:発信はできるだけこまめにしようと頑張っていて、その手応えも感じています。私たちはオンラインショップでの支援チケット販売と銀行振込を通じて支援金を集めているんですけど、「SNSで様子を見ていると何をしているか明確に分かるから、支援したくなる」というような声をもらうことが結構あります。なので、引き続き発信することも頑張っていきたいです。ただ、ファッション業界は福祉に対してまだまだ消極的なところが多いなとも感じます。だからこそ両方の立場が分かる自分ができること、ファッションと福祉という一見異なるものを組み合わせることで生み出される新しい可能性についてこれからも考えていきたいです。 --今後の目標はありますか? 木津:近い目標としてあるのは、定期賃貸できるスペースを確保することです。拠点を確保することで食べること以外のコミュニケーションの場が作れるかもしれないし、もっといろんな可能性が広がると思うんです。食事と教育が一緒にできる寺子屋のような場所にすることが理想です。あとは永く続けていきたい。でもこれらを実現するためには、何よりも安定した資金の調達が一番の課題です。急にすごく現実的な話になってしまうんですけど(笑)、これが本当に大真面目な話で! 来てくれる人、手伝ってくれる人、支援する人、みんながもっとフェアになるためにはやっぱり避けては通れない問題だと思います。以前仕事で関わるモデルさんや女優さん、ブランドさんに売上の一部を寄付して頂いたことがあるのですが、もっとこういったタッグをいろんな企業に呼びかけてやっていきたいです。 地域密着型で、こども食堂を中心に地域のコミュニティーみたいなものを作ることができたら、子供を守りながら雇用も生み出せるんじゃないかって思うんです。そんな理想的な循環を可能にするビジネスモデルを作ることができれたら、全国展開だって夢じゃないですよね。そんな未来に備えて組織も法人化しています。夢は大きく!でもまずは今できる目の前のことに向き合って、地元の洋光台で頑張りたいです。  ■ 木津明子 / スタイリスト...

# COMMUNITY# SOFTNESS# 自分らしく生きる

直感に従ってハーブを自由に愉しむ ー国際女性デーを祝して「女性性」を愉しむハーブティーをプレゼント&ブレンドレシピ公開ー

3月8日の「国際女性デー」は、女性の権利を守り、ジェンダー平等を目指すために1975年に国連が定めた記念日です。シシフィーユでは国際女性デーを祝し、SISIFILLEオンラインストアでお買い物いただいた先着50名様に、コミュニティハーバリストPai Miyuki Hiraiさん監修のオーガニックハーブティーをプレゼントします。  「女性デーといっても、性別としての“女性”だけを対象にするものではないと思う」と語るのは、サンフランシスコに暮らすPaiさん。女性たちに感謝の気持ちを表すのと同時に、性の多様性にも目を向ける日だと捉えているのです。「性はグラデーション」と言われるように、性のあり方は人それぞれに違うもの。また、誰しもが男性性、女性性の両方を持ち合わせていて、人を「男だから、女だから」というようなステレオタイプに当てはめることにも無理があります。 「自分の子どもを見ていると、私たちの子どもの頃と違ってジェンダーをニュートラルに捉えていると思う」と言うPaiさん。次世代の子どもたちへジェンダーギャップのない未来を渡すために、わたしたちができることはなんだろう。国際女性デーとは、そんな問いに想いを巡らす日でもあるのかもしれません。 「女性性」をイメージしたPaiさんのハーブティーPaiさんからのメッセージ ーハーブティーに込めた想いー “風の時代”が到来して、女性性のエネルギーが強くなるなんて聞くけれど、家父長制的なシステムは本当に終わりを迎えると思っています。特に日本では、女の人が前へ出たり、自由奔放でいることを嫌う風潮がまだ残っているように感じますが、これからはもっと女性がリードしていく時代。女性性のエネルギーが高まることで、世の中は大きく変わっていくと思うんです。 今回はそんな願いを込め、「女性性」をイメージして精神的にも視覚的にもリラックスできるハーブをセレクトしました。また、手に入れやすいハーブで誰もが再現できるレシピなので、植物の存在を身近に感じるきっかけとしても楽しんでいただけたら嬉しいです。 ーブレンドレシピー -ホーリーバジルヒンドゥー教では女神ラクシュミーの化身とされ、聖なる植物として崇められている。抗菌作用があり、エイジングケアや、免疫機能と新陳代謝の向上に。 -ローズ女性と関わりの深い植物のひとつ。ホルモンバランスを整えてくれるので、PMSや更年期障害など、生殖器系に関わる不調に。抗炎症、鎮静作用がある。 -カレンデュラ代表的な万能薬。月経不順に対する薬として昔から重宝されている。成分のひとつであるフィトステロールは女性ホルモンに良く働きかける作用がある。また免疫を高めてくれるので、風邪の予防にも良い。  -レモングラス疲れた心を癒し、気分をリフレッシュしてくれる。抗菌作用があり、また消化を促進してくれるので胃腸のもたれにも効果的。 -ミント清涼感のある香りで、リラックスさせてくれる。ミネラルが豊富。胃腸の調子を整えてくれる。 ー飲み方ー マグカップで飲みやすいようにティーバッグタイプにしています。あたたかいお湯でも、水出しでも。水出しにするとハーブのエキスがゆっくりと抽出され、まろやかな味わいを楽しむことができます。お湯 or 水の量を調整してお好みの濃度でお召し上がりください。  ※アレルギーをお持ちの方はブレンドしているハーブにご注意ください。※妊娠中・授乳中・お薬を服用中の方は事前にお医者さまにご相談の上お召し上がりください。 (写真)Paiさんが暮らすサンフランシスコベイエリアのコミュニティーガーデン。収穫されたハーブや野菜がドネーション制でシェアされている。 “Herbal medicine for all”「ハーバルメディスンはみんなのもの」 Pai Miyuki Hirai / コミュニティーハーバリスト...

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つながる場所があるということが支えになる / 櫻木直美さん

 広島でオーガニックコットンの肌着を展開する「marru(マアル)」。「まあるくつながろう」という願いが込められた名前の通り、ブランドの、そして櫻木さんの想いに心を寄せる人たちがやさしくつながり合いながら営みを続けてきました。「マアルさんの拡がりこそがコミュニティそのものだと思う」と語るSISIFILLE(シシフィーユ)ブランドコミュニケーターのcumiが、マアルを紡いできた想い、そしてコミュニティについて、代表の櫻木直美さんに話を聞きました。 ―母と娘、アトピー性皮膚炎の発症からすべてが始まった cumi:マアルさんは、立ち上げ当時から私たちのプロダクトを取り扱ってくださっていて、長年に渡ってシシフィーユを見守ってくれています。そもそも櫻木さんがマアルを始めるきっかけは何だったのですか?  櫻木:長女が赤ちゃんの時、重度のアトピー性皮膚炎を発症したんです。その数年後、なんと30歳を過ぎて私もアトピーになってしまって…。治したいという気持ち一心で衣食を見直す中、黄砂や花粉などの環境的な要因にも身体が反応していることに気がつきました。では、なぜ黄砂が飛んでくるのかと調べてみると、森林減少や土地の砂漠化といった人為的な影響があることが分かったんです。つまり、地球への配慮が欠けた私たちの行動が、結果的にアレルギーで苦しむ人たちを生んでいる。これって、因果応報ですよね。でも、子どもたちには何の責任もないじゃないですか。素直に申し訳ないなと思いました。 cumi:環境問題だけでなく、食べものや流通の仕組み、自然療法などに関心を持ったのもこの頃ですか? 櫻木:そうですね。アトピーがきっかけとなって、暮らしの根本を見直そうといろんなことに興味が広がっていき、次の世代に負荷がかからない生き方をしたいという思いで友人と始めたのが「エコママン」です。周りのママ友に布ナプキンを配ったり、マイ箸袋を作ってフリマで販売をしたりということをしていました。趣味の延長のような活動でしたが、徐々に忙しくなってきたこともあり仕事にすることにしたんです。それが「マアル」の始まりです。 (写真)マアルの実店舗「素 sou」 ―どうしたって、マアルを続けたくって仕方なかったそれほどまでに何かをしたいと思ったことは人生で初めてのことでした 櫻木:個人事業としてマアルを開業したものの、利益はほとんどなく、数年は自転車操業でした。実はマアルを立ち上げて一年後に離婚をしたんですよ。子どもをふたり抱えているし、周囲は当然就職先を探すだろうと思ったようですが、私には全くそのイメージが湧かなかった。どうしたって、マアルを続けたくて仕方なかったんですね。それほどまでに何かをしたいと思ったのは人生で初めてのことでした。心配する両親には「三年後に食べていけるようになっていなかったら諦めるから」と伝え、実際にちょうど三年ほど経った頃になんとか法人化することができたんです。 cumi:立ち上げ当初からある体を締め付けないマアルのオリジナルショーツは今では看板商品となっていますが、当時はまだ目新しいものでしたよね。なぜショーツをつくろうと思ったのですか? 櫻木:私はかゆみ対策として蒸れないショーツがほしかったし、足の浮腫みに悩んでいたママ友は、ふんどしパンツという締め付けのないものを履くとすごく楽になると言っていて。そういう鼠蹊部やお腹周りを締め付けないパンツがほしいねということでつくったのが、新月ショーツと満月パンツでした。 (写真)マアルの代表的アイテム「新月ショーツ」 cumi:マアルさんのオリジナルプロダクトは、糸に至るまで全て厳選されたオーガニックコットンでつくられているのも特徴ですね。 櫻木:そうなんです。アトピーになって衣類は綿素材のものを選ぶようになりましたが、一口に綿といってもかゆみがでるものがあれば、でないものもあるんです。たとえオーガニックのコットンであっても、生産の過程で化学薬品を使うことがあって、それがかゆみの原因となってしまうことがあるんですね。たくさんの生地を試す中で出合ったのが、製造過程で有害な化学物質を使用していないオーガニックコットンでした。 cumi:櫻木さんご自身の体験や身近な方の声が、気持ちのいいショーツの形や素材選びにつながっているのですね。 櫻木:そうですね。また、気持ちいいパンツであるためには、フェアトレードのコットンであることも大切な要素だと考えています。子どもたちに産地やその背景について聞かれた時に、胸を張って説明できるものでありたい。心地いい生地、心地いい肌着を選ぶことは、原材料を栽培する人々の暮らしともつながっていると思うんです。 (写真)マアルのオリジナル布ナプキン ―そこには心が通う人たちがいるということそういう存在があると知っているだけで支えになる  cumi:マアルさんは、プロダクトだけでなく、人とのつながりが豊かですよね。エコママンでのママたちのコミュニティがマアルにつながり、今もマアルが人と人をつないで拡がっていて。 櫻木:下着を使う人、原料を育てる人、生地を作る人、販売する人…、いろんな人たちの輪の中にマアルはあると考えています。創業から13年が経ちますが、つながっているという実感が伴っていて、マアルという名前にして本当に良かったと思っています。 cumi:私生活で落ち込む時期があっても、ずっとマアルに没頭することができたのはその実感があったからなのでしょうか? 櫻木:その通りだと思います。私はエコママンの時からずっとメルマガを配信しているのですが、たくさんの反応をいただくんですね。私のメルマガは想いが溢れすぎていて少々暑苦しいのですが(笑)、それを受け取ってくださる人たちがいる。お店ではお客さまからリアルなお声をいただきますし、ネットショップでは納品書に書くメッセージに対して、メールでお返事が返ってくることもあります。ネット上のつながりは希薄と言われることもありますが、全くそんなことはない。更年期に突入している同世代の方と励まし合ったり、ママ同士で共感し合ったり、お客さんであってもそういう関係性ができていることはすごくありがたいですよね。だからこそ、今まで続けてこられたんだろうなと思います。  cumi:そのつながりこそが「コミュニティ」ですよね。コミュニティって、一方的な押しつけじゃないというのがいいなと思うんです。売り手、買い手の関係を超えて、共通の価値観でつながることができる。対等になれるんですよね。肌や生理の悩みを持つ人がマアルさんのプロダクトを手にし、その魅力をまた別の人に伝えて、とじわじわとコミュニティの輪が拡がっていく。悩みや想いを共有できるからこそ、強いつながりが生まれるのでしょうね。 櫻木:マアルを始める前、子育ての価値観が近しい人を身近に見つけるのが難しかったんですが、天然のものを大事にしていたり、自然に沿った子育てをしているママたちのコミュニティがあって、そこへ行くとすごく気持ちが楽になりました。離婚やアトピーに苦しんだ時は周りの人たちに支えられたし、共に支え合えるという関係性が楽しかったんです。私はひとりでいることも好きなタイプなので、いつもそこにいたいというわけではないのですが、ふと気が向いて行くとそこには心が通う人たちがいるということ。そういう存在があると知っているだけで支えになるんですよね。 cumi:よく分かります。そのコミュニティの存在があるからこそ、ひとりを楽しむことができる。私もひとりでいることも集うことも好きですが、その心地よいバランスはみんなそれぞれ違うものですよね。リアルな場でもオンラインでも自分のタイミングでふらっと立ち寄る場所があることはすごくありがたいことだなと思います。  櫻木:そうですよね。今、月に一度助産師さんに来ていただいて、「添うの場」という無料個人相談会をやっているのですが、これが最高なんですよ。妊娠、出産のことに限らず、更年期や不正出血などどんな悩みを話してもいいし、どんな世代でもウェルカムな場所。みんなとシェアしたい映画を上映する「マアルシネマ」もそうですが、これからもそういう場所作りを続けていきたいなと思っています。滞在型でリトリートできるような場所をつくれたらいいな、とぼんやり想像してみたり。私、女の人たちがリラックスして楽しそうにしているのを見ることが大好きなんです。みんながほぐれて、元気でいる姿をずっと見ていきたいですね。  ■ 櫻木直美 / マアル代表取締役...

# COMMUNITY# FAIRTRADE# ORGANIC# ORGANIC COTTON# PERIOD# フェムテック

受け取ったバトンをつなぐ ー産地の声をユーザーに伝えていくことー 三保真吾さん

オーガニックコットンのリーディングカンパニーであるパノコトレーディングに身を置いて15年以上になる三保さん。オーガニックコットン業界では世代交代の波が訪れ、三保さん自身もその流れのなかにあります。先代からバトンを受け取って走り出そうとする今、そのバトンを未来へどうつないでいくのか。オーガニックコットンの産地であるペルーやタンザニアを実際に訪れて感じた想いを伺いました。 (写真)見渡す限りオーガニックコットンが広がるタンザニアの畑。 ー産地への訪問で、これからの課題や役割がクリアになりました ー オーガニックコットンを取り扱い始めて30年になるパノコトレーディング。これまでどのようなことにこだわって事業を行ってきましたか。 三保:この事業を始めた1990年代初頭は、“オーガニックコットン” という言葉って日本ではまだほとんど認知されていませんでした。生産量も少なく、クオリティもずっと低かった。でも、その頃から辛抱強く続けてきたからこそ、早い段階でいいサプライヤーに出会うことができたんだと思います。ペルーやインド、タンザニアなどの農家さんからオーガニックコットンを買い付けている私たちのパートナー企業は、業界内においてそれなりのポジションにある。世界中に存在する多くのサプライヤーのなかでも、歴史と信頼のある企業だけからオーガニックコットンを仕入れることが私たちのこだわりであり、強みにも直結しています。 ー ペルーやタンザニアを訪問し、実際に現地を見ることで、どのようなことを感じましたか。 三保:これまでも会社としては定期的に産地訪問を行ってきましたが、私自身がペルーとタンザニアを訪れたのはいずれも今回が初めてでした。実際に行ってみると、現地の人たちの情熱や熱量みたいなものをすごく感じましたね。農家の方々はもちろん、我々が直接やりとりをしているパートナーの現地スタッフもしかり。彼らの姿勢を目の当たりにすると、オーガニックコットンの価値をきちんと伝えて広めていかなければという思いがより強くなりました。そして、このつながりを築いてくれた現社長たちに対して、私たち世代に素晴らしいものを残してくれたという感謝の気持ちが深まりました。 (写真)ジニング(綿から種を取り出す作業を行う)工場にある保管庫に原綿が運びこまれる様子 ー 「世代」というワードが出てきましたが、パートナーであるペルーのBERGMAN RIVERA(バーグマンリベラ)社や、スイスのREMEI(リーメイ)社、そしてインドとタンザニアにいるREMEI社の現地責任者たちもちょうど代替わりをしてきているんですよね。三保さんと同じ世代の方々がそれぞれの責任者になっている。 三保:そうですね。パートナー企業も2代目に世代交代していますし、近い将来、私もこの会社のバトンを受け取る立場にあります。それぞれ、受け取ったバトンを丁寧に持って走り出しているのですが、時代の流れに応じて変えていかなければいけないことや、改善していかなければいけないことが当然出てきていて。今回の訪問で、その課題や私たち世代の役割がよりクリアになったと感じています。 ー産地を訪れるというよりは、仲間に会いにいく感覚です ー ペルーには2019年に訪問したそうですが、SISIFILLE(シシフィーユ)とペルーはどのような関係性なのでしょう。 三保:シシフィーユでサニタリーショーツなどに使用している、やわらかく滑らかな肌ざわりの「ピマコットン」というコットンがあります。コットンにもいろいろな種類があるのですが、繊維長の長い「超長綿」のルーツはペルーにあり、なかでもピマコットンは希少価値の高い、世界最高峰の超長綿なんです。そのピマコットンを扱う現地のパートナー、BERGMAN RIVERA社の社長は、2代目のオーランドさん。先代が立ち上げた南米初のオーガニックコットンプロジェクトを引き継いで運営しています。    Your browser does not support our video. (動画)ペルーの畑でピマコットンを収穫する農家の方 ー...

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強さこそがやわらかさを生み出してくれる ―グラフィックデザイナーがシシフィーユに宿したものー 田部井美奈さん

―従来の市販品にはない、家でもそのまま置いておきたくなるようなパッケージデザインの生理用ナプキンを作りたいー。2015年のシシフィーユ誕生時、その思いを形にしてくれたのがグラフィックデザイナーの田部井美奈さんでした。リニューアルにあたって一新されたビジュアルもすべて彼女の手によって生み出されたもの。SISIFILLE(シシフィーユ)のフィロソフィーを熟知した田部井さんと、当時企画を担当していたcumi(現ブランドコミュニケーター)がデザインのこと、コミュニティに対する思いなどを語りました。 ―製品のクオリティに自信があるからこそ、パッケージの遊び心は重要だった(cumi)―信頼できる良いプロダクトとして脈々と浸透していると感じた(田部井) cumi:田部井さんには、シシフィーユ立ち上げ時よりブランドロゴをはじめ、プロダクトのパッケージやリーフレット等のデザインをすべてお願いしてきましたが、最初のパッケージは生理用ナプキンでしたよね。 田部井:お話を頂いた時は、本当に良いもの、素敵なものを作りたい、という思いを持って依頼してくださったことが嬉しかったですね。実際のプロダクトも張りぼてではなく、丁寧にこだわって作られていて。これまでにないものを作るんだ、という感覚があったのを覚えています。 cumi:製品のクオリティに自信があるからこそ、パッケージの遊び心は重要だと考えていたんです。実際に、シンプルで洗練されたデザインでありながら存在感のあるパッケージにしていただいて、家ではインテリアの邪魔をしないし、展示会やショップではディスプレーとしても映えるし、「こういうものが欲しかった」と好評の声をたくさんいただきました。 田部井:不要な要素は極力削って、「女性的だけれど、強さがある」、そんなイメージを持ってデザインしました。あれから何年も経ちましたが、いろんなところで製品を見かけるようになりましたよね。信用できる商品として紹介されているSNS投稿や記事を度々目にしながら、良いプロダクトとして脈々とみなさんの中に浸透しているのだなと感じています。 ―誕生から7年が経ち、生まれ変わったシシフィーユ。新たなデザインに込められた思いとは? 2022年、新たな舵を切ったシシフィーユ。ブランドコンセプトのリニューアルに伴い、ビジュアルデザインを一新することになり、田部井さんにはパッケージデザインに加え、Webサイトのデザインも担当して頂きました。cumi:「SOFTEN THE WORLD. 」という言葉と共に新たに掲げたコンセプトをお伝えした時、率直にどのように受け取られましたか? 田部井:7年前のローンチのときに掲げていた女性らしさ、女性であることというよりも、その人自身の強さ、生き方ということにより焦点が向いているのだなという印象を持ちました。 cumi:そうですね。使い手がどう受け取るかはもちろん自由ですが、提案する側があえて対象者を決める必要はないんじゃないかと考えるようになったんです。大事にしたいのは性別ではなく、何かワクワクする気持ちだったり、いいね、かわいいね、っていう気持ちだったり、そういった女性的なマインドの部分。新しいパッケージのデザインではどのようなことを意識されましたか? 田部井:最初は「S」の文字を使って何かできないかと模索していたのですが、だんだんもっと抽象的な表現でいいんじゃないかと考えるようになりました。「多様性」や「ジェンダーレス」というキーワードを噛み砕きながら考えるうちに、少しずつ感覚的になっていって。そして最終的に、「S」を抽象的な形として捉えるというところに行き着いたんです。 cumi:デザインに関してはこういうふうにしてほしいと言葉で細かく伝えたわけではなくて、コンセプトに紐づくキーワードとイメージからこちらの意図を汲み取ってくださって。最終的なデザインを見たときに、「これだね!」ってチーム内ですごく盛り上がったんですよ。やっぱりずっと見てきていただいているので、ブランドのことをよく理解してくださっているんだなと改めて感じて、とても嬉しく思いました。新しいWebサイトの全体的なデザインについては、どのような気持ちで取り組んでくださったのでしょうか? 田部井: Webだからこうしなければいけないという固定概念をできるだけ取り払おうという意識がありました。なので、紙物のグラフィックをやるときに近い感覚でしたね。  cumi:「らしさ」はあえて意識せず、自分のスタイルでやってみるというのは、新しいシシフィーユ像にも通じるところがありますね。 シシフィーユが思い描くコミュニティ作り。―いろんなコミュニティが輪になり、重なりあって自分が形成されている(田部井)―固執せず、柔軟にいたい(cumi) リニューアルにあたってシシフィーユは、オーガニックコットンの「やわらかなプロダクト」として新たにアンダーウエアのラインをローンチ。さらに、シシフィーユの思いに共感を寄せるユーザーの方々と共に「やわらかなコミュニティ」を作っていくことを決めました。cumi:シシフィーユの考えるコミュニティとは、ウェブサイトやSNSを通じて様々な人のストーリーに触れて、その思いを分かち合う場所なんです。たとえば、何か思い悩んだときに覗きにいくとヒントのようなものがもらえたり、元気がでたり、誰かにとってそんな存在になれたらと考えていて。個人的にも、日本からアメリカに引っ越して心細かった時、コミュニティの存在に救われたんです。田部井:人には拠り所が必要ですよね。私自身、仕事でもプライベートでも、価値観が近しい人が自然と周りに増えてきて、それほど会話を重ねなくても考えを共有できる関係性はすごくありがたいなと感じています。一方で、もっと外のコミュニティにも触れるべきだなという思いもあるんです。そうすることで自分が身を置くコミュニティをより理解することにもなるし、外に触れることをしないと、自分自身が閉じていくような気がして。 cumi:固執せず、柔軟にいたいですよね。例えば、生理のようなプライベートな悩みを友達と話さない人もいると思うのですが、普段接しているコミュニティではそうであっても、シシフィーユのコミュニティの中ではそういった会話に参加できる、みたいなこともありますよね。そういう意味では、コミュニティもいくつか持っているといいんでしょうね。そこを行ったり来たりして。田部井:そうですね。みなさんひとつのコミュニティに属しているわけではなくて、いろんなコミュニティが輪になり、重なりあって自分が形成されているのだと思いますが、その輪を柔軟に開いたり閉じたりできるといいなと思っています。長いこと同じ場所に住んで、同じところで働いていると、同じ思考にならざるをえないのですが、いろんなコミュニティを持つことで多くの世界と触れ合うことができますよね。 柔軟でいるために必要なこととは?―強さこそがやわらかさを生み出してくれる(田部井) cumi:「芯がありつつもやわらかく」ということはシシフィーユの立ち上げ時から今も変わらない信念でもあります。田部井:今回、Webサイト内のモデルカットで起用されていたモデルさんも、やわらかさの中に強さを感じる佇まいがあって、すごくいいなと思いました。新しいシシフィーユ像にピッタリとはまっている感じがして。 cumi:私もそう思います。ナチュラルでありながら芯のある雰囲気にすごく惹かれました。 田部井:やわらかさを持つためには、強さも必要だと思うんです。やわらかいという言葉からは、おおらか、やさしい、甘いといったイメージが連想されがちですが、そういうことだけではないですよね。ただ単に全方向にやさしいということではなくて、それぞれが思考し理解した上で相手に接することや、時に言いたいことを率直に伝える強さこそが、やわらかい関係性を築いてくれる。やわらかな世界とはその先にあるのだと思います。 ■ 田部井美奈 / グラフィックデザイナー・アートディレクター ’14年に独立、田部井美奈デザインを設立。広告、パッケージ、書籍などの仕事を中心に活動。主な仕事に『石川直樹 奥能登半島』『(NO) RAISIN SANDWICH』『PARCO...

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「誰しもにライフパーパスがある」ーコミュニティーハーバリストが伝えたい想いー Pai Miyuki Hiraiさん

共にサンフランシスコに暮らし、互いにリスペクトし合える友人関係だというコミュニティハーバリストのPaiさんとSISIFILLEブランドコミュニケーターのcumi。幼い子どもを抱えて渡米し、当時心もとない日々を送っていたcumiはPaiさんの存在に救われたのだそう。「Paiちゃんとそのコミュニティに愛をたくさん与えてもらって心が満たされた。私たちにはそういう心を寄せ合う場所、コミュニティが必要だと改めて感じるきっかけを与えてくれた人なんです」(cumi)。その時の気持ちが「SISIFILE COMMUNITY」の立ち上げにもつながっているのだと言います。普段もPaiさんのカウンセリングを受け、ハーブティやメディスンで心体を整えているというcumiが、Paiさんにハーバルメディスンのこと、そしてコミュニティハーバリストとしての想いを聞きました。 ―「ハーバルメディスンはみんなのものなんだよ」っていうことを伝えていきたい cumi:Paiちゃんはフォトグラファーやメッセンジャーを経て、今はコミュニティハーバリストとしての活動が中心になっているけれど、コミュニティハーバリストという言葉自体にあまり馴染みがない人には、どんな存在と言えばわかりやすいかな? Pai:昔でいったらその地域やコミュニティにいたメディスンウーマン(※1)やシャーマンと呼ばれるような人たちのことやね。自然や植物と深くつながって、植物のエネルギーや治癒力を深く理解し、そのお力を貸してもらえる人。患者さんの症状だけを見るのではなく、同じ目線に立って、その人の感情やトラウマなども深く近親的に診断する。その上で、必要な植物を煎じたりしてメディスンを作る。イメージ的には、近所にいる魔女さんみたいな感じかな。 ※1メディスンウーマン: 自然と調和した人間本来の生き方を人々に取り戻す術や知恵を受け継いだ人々のこと   cumi:メディスンがもたらす効果だけでなく、コミュニティハーバリストが心や体の状態に寄り添ってくれるということやその存在自体に意義があるなって感じる。何かあった時にすぐに相談に乗ってもらえるというのは、心身が弱った時にとても支えになるよね。私自身、パンデミック中は特にPaiちゃんのカウンセリングやメディスンにすごく救われたし、これからの時代にコミュニティハーバリストのような存在は絶対に必要だなって肌で感じた。そもそもハーブやメディスンにはどうやって出合ったの? Pai:写真を勉強するためにニューヨークに住んでた時、私ビーガンやったんよね。それはなぜかというと、ラスタの人たちと出合って、ラスタファリア二ズム(※2)のこと、彼らの生き方、政治や食べ物、地球、宇宙に対する姿勢にすごく共感できたから彼らと同じビーガンになったの。その時期にハーブを取り入れたりする、ヘルスコンシャスな生活に目覚めた。私はハーブのことって世の中で起きていることとつながっていると考えていて、そこまで深く理解して扱うべきだと思ってるの。 ※2ラスタファリア二ズム: 1930年代に起こったアフリカ回帰などを唱えるジャマイカの黒人による宗教・政治運動。ラスタファリアニズム思想をもつ人たちを「ラスタファリアン」「ラスタ」と呼び、彼らの多くは、菜食主義・自然回帰的 cumi:世の中で起きていることとつながっているというのは、具体的にはどういうこと? Pai:例えば、システム化されたレイシズムのことをシステマティック・レイシズムっていうねんけど。女性や黒人、先住民などが社会的に不平等な立場になるようなシステムが社会的な構造に組み込まれてしまっているということ。世の中が一部の人しか稼げない仕組みになっていて、お金がないと良い学校に入れなかったり、良い医療が受けられなかったりとかね。私は、階級の差や貧困、差別の問題があることを子どもの学校を通じて目の当たりにしたんよ。そういう現実に直面して、自分なりに何かできないかと考えている時に、ハーバルメディスンに出合ってん。ハーバルメディスンっていうのは、植物から作られている薬のことで、病気を予防・治療したり、健康を増進したりするために使われているもの。日本でいったら漢方のイメージと近いんかな。お金がないと受けられないような今の医療システムは限られた人のものだけど、ハーバルメディスンはみんなのものなんよ。まだそのことを知らない人たちに伝えていきたいと思ったし、人間の本来の力を引き出す植物の力に魅力を感じて、学校に通ってコミュニティハーバリストの資格を取得したの。 cumi:知識は必要だけれど、ハーバルメディスンは身近なもので作ることができるから、みんなに開かれているものだよね。ギバー(人へ惜しみなく与える人)であるPaiちゃんがハーバルメディスンにたどり着いたのは自然の流れだったのだと思う。 ―なんで生まれてきたのか、ひとりひとり目的がある  Pai:ハーバリストというのは、その土地のご先祖様たちにもリスペクトを持ち、植物やその土地の魂にお願いして力を貸してもらう許可を取るの。むやみやたらに採集しないことをきちんと理解している人やねん。資源をみんなでシェアして生きていたネイティブアメリカンの時代と同じ精神。でも今の世の中は、分け合いたくない一部の人たちが社会のシステムをつくって多くの人たちを従わせる構造になっているやんか。でも最近、パンデミックになったことで自分のアイデンティティに目覚めて、世の中の仕組みがおかしいと気づき始めた人が増えてきたよね。だからこそ資源をシェアをしていた頃のように戻して、そこからまた新しい世界を始めたらいいと思う。 cumi:Paiちゃんはこれから先、メディスンを通してどういうことをやっていきたい? Pai:もっともっとメディスンを追求していきたい。人生楽しいことが多すぎて、勉強も写真もそうやけど、全うできなかった気がするんよね。でもメディスンのことは生まれ変わってもまたやると思う。みんながなんで生まれてきたのか、ひとりひとりに目的、ライフパーパスがあるの。メディスンを通して、自分が誰なのか、何のために存在しているのか、気づく助けになることを自分の命がある限りやりたいと思っている。それが私の今のライフパーパスやな。全てはエネルギーだと私は思っているから、自分がやりたいと思ったらそうなるし。行きたい方向、ビジョンさえしっかりあれば叶うんよ。 cumi:うん、本当にそう思う。心の声に正直に進むことは、自分にとってだけではなくて、実は周りにも良い影響を与えることになるんだよね。Paiちゃんはそれを体現しているし、伝えていく人だと思う。 cumi:Paiちゃんの思い描いている未来は?どういう暮らしを想像している? Pai:自分たちのコミュニティをつくって、助け合って生きていきたい。政府に頼らずに生きていける術を持ちたいと考えてる。この先は政府に頼る時代じゃなくなるよ。自分で食べるもの、ハーブを育てて、電気も自家発電して、誰にも頼らない生活をしたいねって旦那と話している。未来はそういうことだと思う。理想と今の生活とはまだほど遠いけど、全てのことには理由があるんよ。だから今私がここに置かれているのは、ユニバースが決めたことなんだと思う。 cumi:最後にPaiちゃんにとって「やわらかい世界」とは? Pai:英語で言ったら、レジリエントってことやろ? パンデミックのときによく聞いたワードやね。これからは柔軟性の時代になるよ。想像して、自分が描いたことは必ず形になるの。日々、邪念を抱くこともあるけど、それをはらいながら自分を磨いていくこと。そして自分を知ること。その先にあるのがやわらかい世界なんやと思う。 ■ Pai Miyuki Hirai / コミュニティーハーバリスト 1997年渡米。ニューヨークを拠点にフォトグラファーとしての活動を始める。2001年に帰国し、中目黒にあった「gas-experiment!(後の大図実験)」を拠点に写真家として活動。その後自らもメッセンジャーとして働きながら仲間たちの写真をドキュメントする。2012年に再渡米。現在は母であり、サンフランシスコにて植物と宇宙のエネルギーとつながりながら、コミュニティーハーバリストという肩書きでみんながより良い生活を送るお手伝いをしている。instagram:...

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