このウェブサイトはお使いのブラウザーに対応しておりません。Edge, Chrome, Safari, Firefoxのいずれかで再度お試しください。

COMMUNITY

美味しい記憶がつくる私の料理 ー人を喜ばせることが私の原動力になるー石川早乙美さん

奈良県にある日本料理屋「万惣」の娘として生まれた石川早乙美さん。ミシュランガイドで星を獲得する名店で、幼い頃から働く両親の姿を見て育ちました。それでも料理を仕事にするとは想像もしていなかったという彼女は、30歳を過ぎて料理の道へ。自分らしい料理のあり方とは何だろう。自問自答を繰り返しながらたどり着いた今の形、そしてこれまでの道のりについて話を聞きました。 ー父の味、母の味で育った幼少期 奈良で日本料理屋を営む両親のもとに生まれた私。幼少期は、知らないおじさんとゴミ拾いをしたり、カブトムシのゼリーを食べたりと、周囲からは奇想天外と言われるような子どもだったそうです。父は料理人、当時母は女将としてお店に立っていたので、子どもの頃からお店にいることも多く、父とお弟子さんが料理をする様子や母がお客さんに接する姿なんかをじっと見ていました。お客さんには出せない料理の端っこを食べるのがとても楽しみで。父は家では全く料理をしなかったので、家では母がごはんづくりを担当。おかげで、お店の料理から家庭料理まで幅広い味に親しむことができました。 ー介護職からアパレルに。そしてイタリアへ これまでの道のりを振り返ると、とにかく好奇心が旺盛で、やりたいことがたくさんあるタイプでした。高校卒業後は、子どもが好きだったこともあり短大の保育学科へ。ところが保育と一緒に社会福祉の勉強をしていくうちに、介護の方にはまっていってしまって。おじいちゃん、おばあちゃんたちからもらうエネルギーがすごかったんです。下のお世話も平気でしたし、お年寄りとの関わりから衝撃を色々受けることがたくさんあって。卒業後は介護の仕事に就いたのですが、実家暮らしだったこともあり、自立したいと思うようになりました。母は大反対したものの、奈良を出て東京へ行こうと決意。ファッションも好きだったので、アパレル会社に入り、念願の一人暮らしが始まりました。 働き始めて3年が経った頃、スタイリストさんと話していると、ふいに「本当は何がやりたいの?」と聞かれたことがありました。その方とはその時が初対面だったのですが、私の顔に覇気がなかったみたいで…。そんなふうに言われて考えてみると、海外に行きたいなと思ったんです。そのスタイリストさんは長年暮らしたイタリアから帰国したばかり。イタリアの魅力ある話を聞いて「じゃあ来年から行ってみます」と。すごく唐突なんですけれど(笑)。それからは必死でお金を貯めて、渡伊しました。イタリアでは語学を学び、仕事もしていたのですが、日本で結婚することになり、27歳の時に帰国しました。 ー思いもしなかった料理の道を歩み出した30代  料理を仕事にするなんて想像もしていませんでした。きつい仕事だと身に染みてわかっている父も、勧めてきたことは一度もありません。ところが結婚後、フリーランスのPRとして働いていた時、友人のイラストレーターと話す中で「お弁当をつくってみたい」と気づいたら口走っていました。すると、すぐにイベントでお弁当を出す機会を頂いて。もちろん料理の技術なんてないですし、今思うと本当に怖いもの知らずというか…。でも、小さい時から味わってきた料理を舌が覚えていたんですよね。父の料理の所作を思い出しながら、母が作っていたクリームコロッケも入れたいな、なんて試行錯誤しているうちに、自然と父と母の料理を融合したようなスタイルが出来上がっていきました。 どうしてあの時、料理をやりたいと言ったんだろう。ずいぶん思い切ったなと今でも思います。なんとなく思い当たるのは、まだ奈良に居た頃によく立ち寄っていたカウンターだけの餃子屋さんの存在。朝方に行くと、いつもカウンターの端っこで旦那さんが寝ているんです(笑)。常連もご主人だって分かっているから、風邪ひくよって毛布かけてあげたり、好きなお酒を置いてあげたりして。そのお店のあたたかさが大好きで、いつかこんなお店がやりたいなって漠然と思っていたんです。 ー料理を通して何ができるだろう。自問自答を続けて導きだした答え 2017年、ケータリング事業として「惣々」を立ち上げ、個人で活動を始めましたが、次第にノウハウをちゃんと学びたいと思うようになり、ケータリング事業部がある会社に就職。その頃は子どもが生まれていたので、子育てと仕事の両立を模索していた時期でもあります。その後、飲食店を営む友人に声をかけてもらい、ランチの時間店舗を間借りして定食屋さんを出すことに。メインは、肉吸い定食。私が一番好きな母の料理です。味もしっかり覚えているし、この辺のお店にはない料理だしと肉吸いと日替わりを出す「定食屋惣々」を開店。一年ぐらい続け、お店を閉めてからは知り合いの居酒屋のオーナーに声をかけていただき、そのお店のお惣菜を作らせてもらっていました。 場所を転々としながら考え続けていたのは、料理というツールを使って私は何ができるだろうかということ。私が料理の世界に入ったのは遅かったので、周りの料理人たちはもうすでに一本筋が決まっている人ばかり。そのせいか、すごく焦っていたんです。悩んだ結果、日本料理を一から学ぼうと銀座の高級料亭で修行することに決めました。修行を続ける中で、社長から「将来はどうしたいんだ?」とよく聞かれていました。技術も知識もまだ学ぶことがたくさんある。だけど、本当に私がやりたいのは、高級料理ではなくて、父と母の味、祖母の味、近所のコロッケ屋さんの味、そういう身近な料理だと気づきました。あの味を引き継ぐことが今の私にできることなんじゃないだろうか。立ち返ることができる料理、そういう存在の大切さを感じるようになっていたんです。懐かしさや安心感までが、私にとっての“美味しい”ということ。これからは、私の記憶を料理にしていこう。それを食べた人を笑顔にできたら、そんな幸せなことはないなって。 ー人を喜ばせることが一番の原動力。私にしかできない料理をつくりたい そして料亭を辞めて、父親の元で勉強しながら、母の味をたんまり味わおうと実家に1ヶ月帰ることにしました。時間が空いたある日、久々の検診に行ったところ子宮の病気が発覚。今までの人生では、もっとやってみたい、経験したいことがたくさんあった私。でも病気が見つかったことで、本当に好きなことだけを仕事にしたい。料理人という固定概念に囚われずに、私にしかできないことをやりたい。心からそう思うようになりました。今は、「気取らない料理」をテーマにケータリングや出張料理を中心に活動しています。先日は初めて海外へ。旦那が内装・設計デザインした友人の営むオーストラリア・メルボルンのレストランでPOPUPをしました。「どこか懐かしい味。実家を思い出して泣きそう!」「小さな日本を連れてきてくれてありがとう。」と、お土産になる言葉をたくさん頂きました。私の中で、料理と人はセット。私が人に返せるものってやっぱり料理ですし、食べてくれる人がいる限りは、ずっと作り続けたい。お腹が減ったと聞けば、「作るからいっぱい食べな!」という気持ちになります。私の料理が誰かの役に立つならいつでも作るよって。どんなに疲れて帰っても、家族からの「おかわりある?」という言葉がその日の最高のご褒美になり、それがあるからまた次の日も頑張れる。人を喜ばせることが一番の原動力。だから私は料理人っていうより、みんなのお母さんでいたいんですよね(笑)。そしていつか、大好きなあの餃子屋さんみたいな、みんなが集えるあたたかいお店を形にできたらいいなと思うんです。 ■ 石川 早乙美 / 料理人、「惣々(そうそう)」主宰 奈良県生まれ。父が日本料理屋「万惣」の料理人であることから、幼少期から食に親しむ環境で育った。介護職、フリーランスPRを経て、料理の世界へ。2017年にケータリング事業「惣々(そうそう)」を始動。定食屋の開業、おばんざい・お惣菜屋の料理長、懐石・割烹料亭での修行などを経て、おもてなしの心を忘れずに、日本食の素晴らしさを伝えていきたいという想いを強くした。現在は出張料理人、ケータリング事業を中心に活動中。 instagram: @soso_souzai Photo : Nishitani KumiText&Edit : Nao KatagiriInterview&Direction : cumi...

# 自分らしく生きる

自分の感覚に呼応することで見えてきた進むべき道 ―ネイル、アート、そして耳ツボと― 関根祥子さん

ネイリスト歴17年、お客さんとのコミュニケーションを通して創り出す唯一無二のデザインで人気を集めるネイリストの関根祥子さんは、今年の5月、11年間続けてきたご自身主宰のネイルサロン「mojo NAIL(モジョ・ネイル)」を休業しました。日夜、代官山のサロンでお客さまと向き合いながら、その合間を縫って数々の著名な人々との仕事をこなし、精力的に活動してきた中でサロンワークを休止した理由。15年以上ノンストップで駆け抜けてきたこれまでのこと、気持ちの変化と現在地。新たに取り組んでいる「耳ツボ」とこれからについて、お話を聞きました。 ー美容師を志すも、体調不良からネイルの道へ 子供時代を振り返ると、活発な子だったと思います。覚えているのは折り紙とか、手先を使う作業が得意だったこと。クラスメイトから「折り紙博士」って呼ばれていました。(笑) 自分で何か作ったり、それを教えたりするのも好きな子供でしたね。 そんな子供の頃からなりたいものが美容師。小学校のアルバムに「美容師」と書いて以来その夢が変わることはなく、高校を卒業してそのまま美容専門学校へ進学しました。専門学校卒業後も順調にヘアサロンへ就職してアシスタントから始めたんですが、実は学生時代からとても生理痛が重いことが悩みで...。それが二十歳くらいの時にさらにひどくなり、仕事にならないくらい体調が悪化。 子宮内膜症だったことがわかり、サロンと相談をして治療に専念するために実家へ戻り休養することになりました。そしてその期間にネイルとの出合い、というか再会が。実は、専門学校のカリキュラムでネイルも少しだけ教わっていたんです。当時は美容師になることが目標だったのであまり気に留めてなかったんですけど、割と得意だし、好きでした。地元でネイルサロンをやっていた先輩が「体調が良い時に来たら?」と声をかけてくれて、そこから時々遊びに行ってはネイルチップで作品を作って置いてもらっていました。それがお客さんの目に留まって「このネイルをやりたいと言ってる人がいるよ」と。それをきっかけに友達やそのまた友達にネイルをさせてもらうようになりました。そこで自分のお客さんを持てたことが楽しくて、「ネイルって面白いかも!」と思い、ネイリストとしての道にチャレンジすることに。当時は長時間の立ち仕事が難しかったので、座って仕事ができるところも後押しになりました。 ー「mojo NAIL」の立ち上げからコロナ、そして耳ツボとの出合い 決意してからはまず、ネイルの検定資格を取ってサロンワークをしました。表参道で2年、中目黒で3年ほどサロンワークをした後に、独立して「mojo NAIL」を立ち上げたのが12年前ですね。 そこからはありがたいことに順調にお客さんが増えて、モデルさんや俳優さんとの様々な撮影を始め、サロンワーク以外のお仕事も充実していきました。その合間に定期的にまとまったお休みをとっては大好きな旅に出て、休憩とインプットをする生活を楽しんでいました。 そこから変化があったのが4年前のコロナの頃。コロナがピークの時はお店を閉めていましたが、サロンではマンツーマンでネイルをしていたこともあり、お客さまとの信頼関係によってコロナ前と変わらずサロンワークはしていました。でもステイホームが呼びかけられ、国内外への旅行になかなか行くことが出来なくなっていた時期があり、必然的に仕事と向き合う時間が多くなっていました。そんな日々が続き、2年ほど前にガクッと体調の変化を感じて。手や肌が荒れたり、常に疲れが取れない、思うように身体が動かないなど、今までとは違う感覚に戸惑いながらも、これまで向き合ってこなかった身体のことが気になり始めて。そこからいろんなことを勉強したり、試してみたりとしている時期がありました。試行錯誤しながら、自分のケアと仕事のバランスを探す中で、友達が「耳ツボ、いいよ!」って教えてくれたんです。早速耳ツボをしてもらったら、帰りにびっくりするくらい身体が軽くなったんです。その時に「すぐに学びたい!」と思い、耳ツボセラピーを学びに行きました。耳ツボを知る中で中医学のこと、陰陽五行などの勉強を始め、去年、耳ツボセラピーのディプロマを取得。そこから少しずつ、友達やネイルのお客さんに耳ツボを施術するようになりました。 ー12年目を目前にネイルサロンを休止、その経緯とは? 今年の5月にサロンワークを休業したんですけど、実はそう思い立ったのはそこから3ヶ月前の2月でした。思い返せば10年以上「mojo NAIL」が中心の生活を送っていたんですよね。コロナ禍でさらにそれが加速して、気付けば自分の生活がままならなくなっていました。週に6日から7日、サロンで朝から晩まで働いて、帰ってきたらベッドに倒れ込む。そして朝方4時頃に目を覚ましたら、お風呂に入って少し寝てまた出勤するという日々でした。そんな生活の中で「自分は何をやっているんだろう」と思ってしまって。自分のキャパシティを大きく超えて、心身のバランスが全然取れていない状態でした。そんなある日、夜にボーッとしていたら「辞めてみよう!」って何かが落ちてくるようにストン!!っと思って(笑)。そしたらすごく気持ちが楽になりました。そこからの3ヶ月はよりネイルの楽しさ、サロンワークの楽しさをダイレクトに感じた時間でしたね。 お客さんにそれを伝えた時の反応は「ついにその時が来たか」という感じでした。実は去年、サロンオープン10周年を記念して個展を開催したんです。ネイルをした時に筆を拭いたキッチンペーパーや、ピンときた色合いの廃材、それらと旅先で撮った写真を合わせて作品にしたり、ドローイングしたり、手元だけを映した映像作品を作ったり、ネイルに関する過去のあれこれと何かを合わせて新しいものを作って披露した個展でした。自分にとってはただ節目の年ということを理由に開催したつもりだったんですけど、今思えば変化を求めていたんだろうなと思います。お客さんや友達には「関根さんはいつかサロンワークを辞める時が来るかもしれない」と感じとっていた人もいて。ネイルを通して相手と向き合ってきたからこそ、気づかないうちに私の心の動きも伝わっていたのかもしれないなって思いました。今思い返すと、当時は毎日パンパンに予定を入れて、仕事をこなしていることがステータスだったし、そこに安心感もあった。そうして働いていることが自分の自信になっている自覚もあったし、辞めてしまうと自信まで無くしてしまいそうで怖かったんだと思います。新規のお客さんの受付けをストップしたり、仕事を減らそうとしてみたりしたこともあったんですけど、やっぱりどうしても気持ちが休めなくて…。そうして身体がおかしくなるギリギリのラインに来た時に、自分の意思を超えて「辞めよう!」と思ったんだと思います。辞めてからは、しっかりと休むために1ヶ月くらい海外へ行きました。ヨーロッパ、北欧のエリアをぐるりと。 ー1ヶ月の海外生活、帰ってきた時に感じた東京について 辞めようと決意した後も、海外へ出てからも突発的に不安が込み上げてきたことはありました。これまでは海外で充実した時間を過ごしながら、帰れば仕事があるという安心感があったけど、果たして今回の決断はあっていたのか?みたいな。それでも海外にいる間に少しだけ持っていったネイルの材料を使ってポップアップをやらせてもらったり、気持ちも何段階か経たりしているうちに、不意に「大丈夫、私は間違ってなかった!」って思えるようになりました。ネイルも耳ツボもどこでもできるし、お金がなくなったら働けばいいんだって気楽に考えられるようになった時、一気に不安から抜け出して、自分は進みたい道へ進んでいると感じられたんです。  そんな1ヶ月を過ごした後7月下旬に東京に戻って来て、その時に気づいたのは、私自身が自分の世界観を狭くしていたということ。「mojo NAIL」を自分で始めて、そこには1日にどのくらいお客さんが来て、こんな仕事をして、こういう存在でいなきゃ!って、自分で自分の世界を創り上げていた。でもそれを続けていく中で、いつの間にか東京という場所を窮屈に感じてしまっていたんだと。海外から戻ってきた時、昔なら「世界は広かった、日本は狭い」と感じたと思うんですが、今回は海外も日本も同じというか、どこにいても一緒で世界も日本も東京も広くて自由だと思えたんです。今までは友達に誘われても仕事で予定が埋まっていて動けないことが当たり前だったけど、今は声がかかったらサクッと出かけられるし思いつきで人とも会える。その身軽さ、時には不安とも表裏一体になれる自由を感じられるようになりました。最近では予定を詰め込まず、不意に出かけた時に寄り道したり、自分の気の向くままに移動したりしていると、いろんなものがきちんとフィットしてきて、気づけば1日にすごくいろんなことが起こっていて、良い出会いがあったり、美味しいものが食べられたり、そんな心地よさを味わえるようになりました。今は、予め決めたわけじゃない場所での出合いが私の人生に必要なことだと思える感覚を楽しんでいます。 ー今取り組む耳ツボと、関根さんのこれからのこと 今現在は、ネイルのお仕事を続けながら、耳ツボを通して人間の持つエネルギーや性質のすばらしさについてより深く勉強している最中です。二十歳の時に体調を崩して病院や薬が苦手になり、サプリやマッサージなど健康に関する様々なことを実践してきましたが、耳ツボをすると胸が開いて楽になったり、身体がポカポカしてきたり、すぐにその良さを体感できるんです。心まで楽にしてくれるところも良いなと思っていて。 (写真)左のペン状のものは耳ツボを押す際に使うフェイスポインター。中央上、アーユルヴェーダにヒントを得て作られたという「Daruma」のイアオイルを使った耳のマッサージを毎日欠かさない。右下には、小さく輝く耳ツボシールたち。 今はやりたいことが頭の少し上のあたりでモクモクしている状態。私の中でそれらがまだはっきりとは繋がっていないんですが、それが降りてくるのを待っています。私にとってはネイルも耳ツボも、個展で披露したようなアートもすべて、アウトプットする形が違うだけで同じことをしている気分。人間には、それぞれ様々な出来事や想いがあると思うんですけど、これからもネイルや耳ツボ、アートを通して人に寄り添えるものを提案したい。私は私を存分に楽しみながら、みんなにとって自分自身を楽しませるきっかけ作りができる人になれるといいなと思っています。 ■ 関根祥子 / ネイリスト、「mojo NAIL」主宰 一人ひとりと会話をしながら、その人に寄り添ったパーソナルなデザインネイルで人気を集める。2012年にオープンしたネイルサロン「mojo NAIL」を今年の5月に休業。現在はワークショップやイベントを通してネイルと耳ツボを発信。オンラインショップ「MOJOM(モジョム)」を運営。お米を愛するコミュニティ「BEISUI(ベイスイ)」にも携わる。HP: mojo...

# HEALTH# 自分らしく生きる

自然界に存在するわたし達が豊かに生かし合える世界 / ウィーバー佳奈さん

家族で暮らすカリフォルニア州ベイエリアを拠点に、地球上に存在する、多様な植物の種を未来に継いでいくための研究・活動をしているウィーバー佳奈さん。“人間は自然の一部であり、自然自体だ”という感覚を大事にしているという佳奈さんが、自身の出産を通じて思いを強くしたのは、自分が元気でいないと人を幸せにすることはできないということ。“私たちが自分をどう扱うかが世界をどう扱うかに繋がるし、世界をどう扱うかが自分をどう扱うかにもつながる”と語る佳奈さんに、人と自然が支えあって生きること、そして自分を大切するということについて聞きました。 ―五感で自然と世界を体感した子ども時代 幼少期を振り返ると、今の私につながる種があちこちに撒かれていたのだなと感じます。都心に生まれ育ったのですが、都会の中にいながらミクロな世界で自然に触れる機会がたくさんありました。通っていた幼稚園には田んぼや畑があって、みんなでお米や野菜を育てていて。田んぼを裸足で歩くと、足の指の間から土がニュルっと出てくる感覚や土の中からウワっと立ち込める生命の匂いを今でも思い出します。五感に染み付いているんですよね。その幼稚園では、カンボジアで地雷の被害を受けた子どもの支援というような社会活動もしていて、同じ地球の上で私とは全く違う暮らしをしている同い年の子どもがいるということを知り、なんでこんな状況が生まれるのだろうと強い衝撃を受けました。その頃から環境問題や社会問題に関心を持ち始めて、幼いながらに“人間という生き物として、この地球でどう生きていくか“という問いがいつも頭にありました。 ―種というのは、人と大地が紡いできた関係性の結晶なのだ 父の仕事の都合で7歳から10歳までをアメリカで過ごし、その後帰国。中学生の時は学校に馴染めず不登校だった中、9.11が起きたんです。色々調べていくうちに、地球が大変なことになっていることを感じて、“家の中でゴロゴロしている場合じゃない!”と奮起。環境問題に足を踏み入れたいという気持ちが高まり、その後の進路の方向性が定まっていきました。大学では、環境にやさしい農業と食のシステムの在り方を研究テーマとし、アフリカのモザンピークの農業開発調査をするように。現地で伝統的な農業や地域の在来作物の種を守っている女性たちの話を聞くうちに、種というのは、人と大地が紡いできた関係性の結晶なのだと感じました。何世代もの人たちが、その土地で自然と対話しながら、今の形に至るまで紡いできた長い道のりに気づいたとき、それまで個体として見ていた植物や種に対する見方がガラッと変わったんです。そうして、情報や可能性がぎゅっと詰まったカプセルのような種という存在にどんどん惹かれていきました。一方、ここ100年ぐらいの間に地球上の7~9割もの種が絶滅したと言われています。自然の中で生かし合う多様な種子を未来に継いでいきたい。この時に感じたことが今の活動の原点となっています。(写真)佳奈さんの種コレクション(ライ豆, にんじん、ポピー、ホワイトセージ、ジャカランダ等) ―産後の経験から自分を大切にする方法を学んだ、セルフケアの第一歩は耳を傾けること オランダの大学院の研究室で出会ったパートナーと結婚し、妊娠。今後どこに暮らそうかと話し合い、妊娠中に彼の出身地であるカリフォルニアへ引っ越しました。産後、すぐ研究に戻りたい気持ちとは裏腹に、体は思うように動かず…。私は、自分を犠牲にして活動するのではなく、自分を大切にしながら自然界や他の全ての存在を大切にするというのが一番持続的な活動方法だと考えているので、まずは自分の体を最優先させることにしました。ところが、私自身が自分を大切にする方法を知らないことに気がついたんです。私たちの世代は特にかもしれませんが、学校でも社会でもどちらかというと協調性が重んじられて、自分を大切にするということをあまりやってこなかったと思うんです。誰からも強いられていないのに無意識に自分のニーズを我慢して、相手や子供のニーズに応えるという癖がついていたんですね。産後は、それに一つ一つ気づいて、自分に意識を向け直すという作業の繰り返し。そうやって、自分を大切にするということを少しずつ学んでいきました。(写真)アーバンパーマカルチャー実践者でもあるパートナーのアントニオさんと息子のリオ君 自分を大切にすること、自分を愛するということ。言葉で理解しつつも、いざ行動に移すとなるとどういうことなのだろうと戸惑ってしまう人も多いのではないでしょうか。私にとって、セルフケアの第一歩とは、耳を傾けることです。自分自身との関係、人との関係、植物との関係、どれもそうですが、まずはそこにいる相手に耳を傾けて話を聞いてみる。植物だったら、感じてみる。そうした時にどういう感覚が湧き上がってくるのか、自分の内に耳を澄ましてみる。スマホやパソコンから情報が溢れ出てくる現代の暮らしでは、自分以外のことに意識を向けながら一日を過ごしがちです。だけど、これまで聞く習慣のなかった自分の声を拾い上げて、そういう声があるんだということを受け止めてあげる。地味かもしれませんが、そこがセルフケアの入り口です。たとえば、今コーヒーを飲んでいるけれど、本当はチャイが飲みたかったかもしれないというような内なる小さな声。些細なことだけれど、そういう心の声を意図的に丁寧に感じてあげること。自分に対してそれができないと、人や自然の声にも耳を傾けることができないと思うのです。 ―自分を大事にしながら地球と調和した暮らしをしていきたい 産後の体にパソコン作業が負担に感じたので、種や植物に関する講演会を開くなど、できることから少しずつ仕事を再開しました。ずっと学者の道に行くというビジョンを持って、昨年までカリフォルニア大学サンタクルーズ校の環境学部に在学していたのですが、去年大学を辞めました。きっかけとなったのは、パートナーのおばあちゃんが亡くなったこと。90歳を超えて大往生だったのですが、死を受け入れて過ごすという最期の日々を一緒に過ごさせてもらったんです。自然の死のプロセスを目の当たりにして、残りの人生何かできるかな、もし数年後に死ぬとしたら今何がしたいかなということをすごく考えました。そして出た答えが、自分という素材を使って世界に貢献したいということ。大学は素晴らしい環境だったし、研究も楽しかったけれど、知識がパブリックに広がっていかないということがフラストレーションでもありました。私がこれまでいただいてきた貴重な体験や知識をもっともっと広くシェアしたい。残りの人生で今が一番若いのだから、やりたいことをしようと思うようになったんです。(写真)まだ未熟な花豆 今は種子の保全活動、人同士をつなげる活動や研究をしながら、植物とセルフケアの教室やオンラインスクールを立ち上げてやっています。今アメリカに地域の在来種を集めて、コミュニティで保存していくという取り組みがあるのですが、日本でも同じようなことができたらと考えています。今、自然の循環の中で生きることを体現してきた先人たちが高齢化し、すぐに受け継がないと残せなくなってしまう声がたくさんあります。これからの地球の在り方の一番ヒントになると思うのが、植物や大地と密接に関わって関係を紡いできた人たちの軌跡。アメリカでもネイティブアメリカンの方から生きる知恵を学び直そうというムーブメントがありますが、同じことが世界中で起きています。私たちが今方向転換して、人と大地、自然が互いを生かしあう関係を再構築し、健康な未来を次世代につないでいきたいんです。 ■  Koa Weaver 佳奈 (ウィーバー佳奈)  民族植物学者、薬草専門家、自然療法ウェルネスコーチ。一児の母。世界を旅しながら、各地の植物の美しさ、薬草学、種の多様性、植物にまつわる文化の多様性を次世代に手渡す方法について探究。東京大学大学院修士、オランダエラスムス大学社会科学研究所修士。カリフォルニア大学サンタクルーズ校環境学博士課程単位取得退学。国際民俗生物学会所属。米国自然療法ウェルネスコーチ資格。植物とのつながりを通じて、自分のことも地球のことも大切にする暮らしを実現することに関心がある。植物、ハーブ・薬草、セルフケア、生物文化多様性保全の分野で講座、コンサルティング、執筆、通訳などを行う。米国カリフォルニア州バークレー在住。好きな食べ物はパイナップルグァバ。 instagram: @seedfromearthYoutube: たねチャンネルHP:Seed from Earth公式サイト Text&Edit : Nao KatagiriPhoto : From Koa Weaver KanaInterview&Direction:cumi

# HEALTH# 自分らしく生きる#SUSTAINABLE#パーマカルチャー#ライフステージ

マグカップで育まれるつながり ーコミュニティーを生み出すハンドメイドの力ー rieさん

サンフランシスコ・ベイエリアでパートナーのジェイさんと共に陶芸アトリエ「DION CERAMICS(ディオン・セラミックス)」を営むリエさん。2011年に前進となるマグブランド「Atelier Dion(アトリエ・ディオン)」が生まれてから、制作にかかる全てのプロセスを自分たちの手で行っています。シンプルながら温もりのあるマグ(マグカップ)は、地域のいくつものレストランやコーヒーショップで使われ、ローカルの人々を中心に愛されてきました。「マグこそが私たちのコミュニティー」と語るリエさんの言葉通り、ふたりの生み出す作品がハブとなって人と人がつながり、コミュニティーとして豊かに育まれてきました。「ずっと自分が心地良いと感じる場所を探して動いてきた」というリエさんが今に辿り着くまでの軌跡とは。私は、愛媛県伊予市で生まれ育ちました。海と山が近い、今住んでいるベイエリアにも似た雰囲気のある場所です。私の陶芸の原点は、愛媛の砥部焼にあります。実家で使われていた食器は、母が砥部焼の陶器市で買ってきたものでした。うちは、お客さん用と日常使い用の食器が分かれていたのですが、子どもの頃はそれがすごく不思議だったんです。母と陶器市に行くとB級品の器が売られていて「これはここに傷が入っているから安いのよ」なんて教えてくれて。一方、お客さん用として大事にされている器は作家ものだということが分かり、同じ食器でもこんなに違いが生まれるんだというのが面白くて、自然と陶芸に興味を持つようになりました。大学生の時に「アメリカで陶芸をやりたい」と両親を説得し、日本の大学を中退して渡米しました。カリフォルニア州オレンジカウンティーにある大学の陶芸科に入り、卒業後はCalifornia College of Art(以下CCA)の大学院へ進学しました。作ることが中心だった大学の授業に比べて、CCAはもっとコンセプチュアル。手先が器用だったこともありそれまでトントン拍子できた私でしたが、ここに来て自分が無知だということに気づかされることになります。そこからは、陶芸のコンセプトやフィロソフィー、セオリーを学びながら、ひたすら思考を突き詰める作業を繰り返しました。CCAで過ごした時間は、人生で一番挫折し、一番勉強し、そして一番学校というものを好きになることができたひととき。この時期にとことん陶芸と自分自身を追求したことが、後に大きな糧となりました。(写真)パートナーのジェイさんと共にアトリエで作業をするリエさん(写真)型から抜いた制作過程にあるマグ。型と、型をとるための型も2人のハンドメイド。 ―サードウェーブコーヒーと地産地消の波に乗って。地域で愛される存在になったマグ CCAを卒業した2010年のアメリカは経済の見通しが悪く、就職氷河期の真っ只中。アートの分野での就職は特に厳しいものでした。ですが、まだ若かったこともあって楽観的で、アートセンターで陶芸の講師をしたりレストランで働いたりしながら、CCAの同級生だったパートナーのジェイと自宅アパートメントのガレージを拠点に創作活動を続けていました。そのうちにCCA時代の教授が陶器制作の仕事を紹介してくれるようになり、そこからさらにつながりが生まれて仕事の依頼が少しずつ増えていったんです。今でこそ陶芸家が自分でオンラインショップなどを営んでスモールビジネスを手掛ける人も多いですが、当時はほとんどいませんでした。むしろ陶芸をやっている人自体がとても少なくて。だからこそ、カスタムやファブリケーションの仕事をいただくことができたんです。 時期を同じくして、ベイエリアではサードウェーブコーヒーや地産地消など、飲食文化を中心に新しい波が盛り上がり始めた頃でした。現在のベイエリアではローカルのものを愛し、ローカルで生まれるものをみんなで応援していこうという考え方が当たり前のように根付いていますが、当時はまだそういう空気感はありませんでした。次第に、レストランやカフェで使用される食器も地元の陶芸家のものを起用しようという動きが出てきて、サードウェーブの先駆けだった「Four Barrel Coffee」や「Sightglass Coffee」のマグカップやソーサーを手がけていた私たちは、意図せずともその波に乗ることとなりました。たくさんの地域の飲食店やセレクトショップなどで取り扱っていただくようになり、自然な流れでマグブランド「Atelier Dion」が誕生しました。これまでずっと地域で人とつながり、顔が分かる人たちと仕事をしてこられているのは本当にありがたい事だなとつくづく感じています。 ―手作りのものが持つ力を借りてコミュニティーを作っていきたい 私たちの作品はシンプルに見えてものすごく手間と時間がかかります。ジェイと私の2人だけでブランドを運営しているため、子どもが生まれてからはだんだんと子育てと制作活動を両立する事の難しさを感じるようになっていきました。そのため体制を変えようと「Atelier Dion」を一旦お休みし、カリフォルニアの陶器ブランド「HEATH CERAMICS」で働きはじめました。それから3年半が経った去年、子どもたちが大きくなってきたこともあり、自分のブランドをまたしっかりやりたいと思うようになり、退社しました。運が良いいことに、今の自宅の大家さんが地下で陶芸がしたいという私たちのお願いを快く受け入れてくださり、子育てと制作、両方が無理なくできる環境を整えることができました。そしてAtelier Dion改め、これからは「DION CERAMICS」という屋号で本格的に再始動します。どんなに日々が忙しくてもジェイと決めているのは、マグの制作は絶対に続けるということ。なぜなら、マグこそが私たちのコミュニティーで、そのコミュニティに助けられたことで今の私たちが在るからです。だから絶対に失くしたくない。その思いを確かなものにした出来事がありました。私たち家族は数年LAに住んでいた期間があり、2年程前に再びベイエリアに戻って来たのですが、なんと引っ越しの翌日に全ての物が入っていたトラックが盗まれてしまったんです。当然、家の中は空っぽ。ありがたいことに友人を始めたくさんの人たちがすぐに必要な物資を届けてくれたり、ドネーション型のクラウドファンディングを通じて支援してくれたり、コミュニティーからの大きなサポートを受けました。 ただ生活をすることはできたのですが、家の中から手作りの物は一切なくなったまま。すると、家の中に人の気配がなくなっていることに気がつきました。でも、友人が作った食器や絵を持ってきてくれるたびに「この人もいるし、この人もいる」というように物がリマインダーになってくれて人の存在を感じ取ることができたんです。手作りのものが増えるごとに、家がどんどん“家(ホーム)”になっていく感覚がありました。手作りのものが持つパワーって本当にすごいんです。 ―今いる環境に寄り添うように、素直に生きていく 私とジェイが大事にしているのは、自分たちがいる環境に沿った正直な陶芸をすること。たとえば、私たちの陶芸は火を使いません。電気釜でも見た目も使い勝手も良いものを作ることはできるし、街に住む私たちの陶芸はこういうものだよっていうことを作品に反映させたいから。もし私たちが違う土地へ行けば自然とスタイルは変わると思いますし、常にその時の自分たちの等身大でいたいんです。大人げがないかもしれませんが、私は自分自身が心地良くいられないと人に優しくすることができません。だから、自分が無理せず自然体でいられるような環境に身を置くことをとても大事にしています。そのために、ずっと心地良い場所を探して動いてきたのだと思います。 私はマグが好きです。誰かの日常生活に入り込んで、日々触れられ、味や時間を感じられるものだから。私たちにとってDION CERAMICSのプロダクトは、お客さんやその先にいる人たちとのとのコンタクトポイントであり、人と人とをつないでくれるものです。そのつながりが生み出す縁や絆をすごく信じているし、それをエネルギーに代えてコミュニティーを育んでいきたいと思っているんです。 ■  rie / セラミックアーティスト・DION CERAMICS主宰 愛媛県出身。2001年に渡米し、大学・大学院で陶芸を専攻。その後大学院で同級生だったパートナーjayと共にセラミックブランド「DION CERAMICS」を始める。サンフランシスコベイエリアのカフェやレストランからの要望を受けてスタートしたマグカップがブランドの原点でありシグネチャーアイテム。常に等身大であることを大切に、現在はUrban Potteryをテーマにマグでつながるコミュニティーを育みながら活動中。instagram: @dion_ceramicsHP:DION CERAMICS公式サイト...

# BACKGROUND# COMMUNITY# 自分らしく生きる

「well-being(ウェルビーイング)」を体現する / Mao Brazilさん

現在1歳になる男の子を育てながら、ご自身で立ち上げられたヘルスケアブランド『HARVEST SPOON(ハーベスト・スプーン)』と、ローカルオーガニックとヴィーガンをコンセプトにした『COSMOS JUICE TOMIGAYA(コスモスジュース富ヶ谷)』を営むMaoさん。モデル、ケータリング業を経て、人の身体と心の健康に寄り添う仕事をしている彼女が考えることとは? 後編では運動、食、そしてブランドとお店立ち上げの背景から、Maoさんが日々大切にしていることについて伺いました。 ーMaoさん着用商品ー 気軽な気持ちで始めた運動と食事への気遣いが、その後の年にもたらしたこと   運動を始めたのは20歳の時、あるランニングチームに誘われたのがきっかけでした。当時はモデルをしていたので、身体づくりと生活リズムを整えるために軽い気持ちで始めたのですが、翌年にはロンドンで10キロのマラソン大会へ出場し、その翌年には名古屋ウィメンズマラソンでフルマラソンを完走しました。大会へ出場するたびに仲間と一緒に走る楽しさを感じつつ、後半はもう自分との戦い(笑)。根性で走りきることもありましたが、完走した時の達成感はたまらないものがあります。その後も定期的に大会へ出ながら、ランニングは妊娠するまで続けていました。身体を動かすことは自分にとって不可欠だと自覚しているので、妊娠中から産後も自宅でYouTubeを見てヨガやトレーニングをするなど、無理せず自分のペースで運動を続ける日々です。 一方食に関しても、東京へ来た頃から体調を優先してできるだけオーガニックの野菜を食べたり、食材はファーマーズマーケットで買うようにしたりしてきました。そこで出会う農家の方々や、自然と調和して暮らす人たちの話を聞くと環境問題への関心の高さに共感できたり、私自身のマインドとも近いものを感じられたり、とても心地が良かったんです。 そして、食へのこだわりがより強くなったきっかけは妊娠でした。身体が添加物を受け付けなくなったことや、出産のためにハワイ島の大自然の中で暮らした経験から、それまで以上に食べる物の持つ力を強く感じることが増えたんです。さらに、地元で採れたフレッシュな物をいただく美味しさを体感し、それを作る方々の想いが直に聞ける安心感を得られたことで、「いただきます」や「ごちそうさま」と言う時の感謝の気持ちがより深まりました。今では、野菜はできるだけ各地の農家さんから直接オンラインで取り寄せたり、遠出した時は道の駅で買ったりしています。私が運動と食事両方において大切にしていることは、それをストレスにしないということ。例えば運動を始めた当初は「モデルとして理想的な身体にしたい」という目的もありましたが、そうすると「ここがダメだ、ここが引き締まっていない」とか、見た目ばかりを意識してしまって辛くなってくるんですよね。でも私は、運動をすることで身体だけでなく、心まで健康になるのを感じたんです。日々の生活に追われて行き詰まったりイライラしたりする時、身体を動かすことで無になれて、心に余白ができる感覚。それは自然に触れることにも似ているんですけど、運動をして身体と心の両方を健康に保つことで、本来の自分を取り戻せるのを感じています。 パンデミックの最中、健康と幸せについて考える中で生まれた『HARVEST SPOON』 そうした中で、パンデミックが到来したのが2020年。家にいながらゆっくり考える時間ができ、健康で幸せであることの大切さについて考え、再認識できた時期でした。そして自分が感じていることを反映させたものを作りたいという想いから、それまで私が飲み続けてきた酵素を使ってサプリメントブランドをスタートしました。それが『HARVEST SPOON)』です。それまでも、その酵素を飲むことで腸内環境が整えられたり、お酒を飲んだ後も調子が良いのを感じ、私自身手放せないものになっていました。そんなお守りのような存在だった酵素でサプリを作るため、大学のチームと一緒に研究するところからスタートしました。私たちが作るサプリには、耐熱性で、生きて身体の中に働きかけるバクテリア由来の酵素を使っているのですが、緑茶に含まれるカテキンと一緒に摂ることでその効果がより高まることがわかったんです。そこから緑茶を育てている農家さんを探し、50年以上前からお茶を有機栽培されている伊勢のお茶屋さんに巡り会いました。また錠剤のサプリメントには粘着剤にパーム油が使われていることが多いのですが、インドネシアではその原料となるアブラヤシが伐採され、オラウータンの住処が破壊されていることが社会問題になっているのを知っていたので、パーム油は使いたくなかったんです。そのために高圧プレスができる日本の工場を探し回りました。資材も環境に配慮したものにこだわりました。容器はリユース、リサイクルできるもの、緩衝材と梱包材にはプラスチックを使わない、そしてラベルやテープは植物性の粘着剤が使われているものを選ぶようにしています。こうして自分のやりたいことを実現していたら結局1年という期間がかってしまいました。それでも気持ちがブレずに形にすることができて良かったと思いますし、資材については環境に優しいことを優先してこれからもどんどんアップデートしていくつもりです。出産のために滞在したハワイでの日々と、私の思いをつめ込んだ『COSMOS JUICE TOMIGAYA』 この考えは、今年の5月にオープンしたジューススタンド『COSMOS JUICE TOMIGAYA』でも同様に取り入れています。ショップの立ち上げは、出産のために滞在したハワイ島での日々がきっかけでした。 ハワイでは毎週、ファーマーズマーケットへ出かけ、地元で採れた新鮮でエネルギーの詰まった野菜を調達していました。その野菜がとにかく美味しかったのと、生産者さんとのコミュニケーションが本当に楽しかったこと。美味しさと楽しさが相まって、気分も体調もとても良かったんです。結果として4ヶ月間、私たち夫婦は毎朝ジュースを飲んで過ごし、最後にはジューサーが壊れたほど(笑)。 そして日本に帰っても同じことができたらなと思い、このジュースバーを立ち上げました。今回は、夫もそうですが、家族や友人、仲間たちと一緒になって1からお店作りをしたんです。カウンターを設置したり、壁にやすりをかけてパテやペンキを塗ったり。息子を抱っこしながら、できることは何でも自分たちでやりました。その地域にいる人々にも受け入れてもらえるよう、ナチュラルでカジュアルで、手作り感のあるお店を目指して。おかげで私自身も行くたびに元気になれる空間になったと思います。お店で出すメニューやレシピについても、サプリと同じく細部までこだわりました。メインはコールドプレストジュースとスムージーで、コールドプレストジュースは全て国産の無農薬野菜、果物を使っています。スムージーに入れるものは海外からのものもありますが、全てオーガニックで作られている野菜や果物で作っています。取引先の農家さんとも直接やりとりをしていて、畑を見に行ったり話を聞いたりして、作物が作られる背景が信頼できるものを選んでいます。その時旬の食材を使って作っているので、メニューも頻繁に変わりますが、その分いつ来ていただいても飽きずに楽しんでもらえると思います。 あとは、看板メニューでもある「ショット」がおすすめです。オーガニックの生姜と沖縄のウコンをメインに、旬のフルーツや野菜を入れて飲みやすくしていますが、これが本当に元気になる! 私はお店へ行くたびにそのまま飲んだり、他のドリンクにショットを追加して飲んだりしているのですが、もう欠かせません。 また、ドリンクを提供する時に使っている瓶はリユース・リサイクルができるものにしていて、カップはコンポスタブル(生分解性)のものを使っています。「HARVEST SPOON」を始めた頃から実施してきた、ゴミになるものはできるだけ使わないということ、これはジュースバーでも引き続き妥協せずに続けていこうと思っています。人と自然に魅了されながら今、自分ができる「well-being(ウェルビーイング)」を体現するこうして振り返ると、運動と食事がもたらす私の心地よさ、快適さの延長線上に『HARVEST SPOON』と『COSMOS JUICE TOMIGAYA』があるのは必然だと思います。どちらも人と人であり、人と自然の結びつき。運動するのも人がきっかけだったし、食に関しても自分と同じマインドの人々が作る食材を手にとるようになりました。そして健康にいい物を作りたくてサプリを作っては、必要としてくれる人へ届けている。日々、お店へ行ってスタッフと一緒にメニューを考えたり、お客さんとコミュニケーションをとることもとても楽しいんです。だから今はこうして、私なりに自分に対しても、家族に対しても、周りに対しても、「well-being(ウェルビーイング)」を感じられる場所やものを作ることを大切にしていきたいと思います。 今後の願望?...

# HEALTH# ORGANIC# 自分らしく生きる#ライフステージ

パーマカルチャーで実現するハッピーな暮らし / ソーヤー海さん

千葉県いすみ市に暮らし、パーマカルチャーや非暴力コミュニケーション(NVC)、禅などのキーワードを通じて、本質的に豊かな暮らしを実現させるための活動を行っているソーヤー海さん。2016年には「パーマカルチャーと平和道場」として、自然とつながり、自分の手で暮らしをつくるための学びの場を立ち上げました。パーマカルチャーが実現された先には、どんな世界が待っているのでしょうか。前編では、パーマカルチャーとの出合い、そしてソーヤー海さんが描く豊かな世界についてお話していただきました。 ―僕は、コスタリカのジャングルで初めて地球と出合った 東京に生まれ、日本とアメリカを行き来しながら育った僕の人生を大きく変えたのは、9.11だ。それはちょうどカリフォルニア州サンタクルーズの大学に入学する直前の出来事だった。平和だと信じていた日々に、急に戦争というものが身近になってやってきた。と同時に、それまで漠然と思い描いていた、大学でいい成績を取って、いい会社に入って…といった未来図がガラガラと崩れていった。この現実を見ないふりなんてできないし、とにかくなんとかしないと。その一心で、反戦運動に加わった。 でもね、反戦運動って文字通り、反対する運動だからエネルギーがものすごく必要なんだ。圧力はかかるし、対立構造になりやすいからね。ピリピリとした活動を6年ほど続けたけれど、どこかでこれは持続可能じゃないぞと感じていた。そんな中で有機農業や自然農と出合って、そのポジティブなエネルギーに惹かれるようになった。そして、一度先進国を離れて生き方を見直したい、地球がどんな場所なのかちゃんと知りたいと思うようになって、コスタリカのジャングルに移住することに決めたんだ。ジャングルの生活は、ココナッツ、バナナやマンゴーが食べ放題。電気も水道もなくて、自分たちが生きるための食べ物を得ることが中心の日々だ。動物ってさ、みんな自然の中で「ただ食い」しているんだよ。お金を払って食べ物を得ているのは人間だけ。ここでの暮らしを通して、僕は初めて「地球と出合った!」と感じたよ。そして僕は生態系の一部なんだということも。だけど現実は、人間だけが自然と切り離された生き方をしている。人間ってなんだろう、生きるってどういうことだろう。そんなことを考えている時に出合ったのが、パーマカルチャーだった。パーマカルチャーとは、ものすごく簡単に言うと、自然の循環を取り入れて、人が豊かに生きていくための暮らしや社会をデザインすること。 その世界観にどっぷりはまった僕は、ジャングルを出てパーマカルチャーの実践地を訪ね歩いた。ニカラグア、キューバ、グアテマラ。各国のお百姓さんから学んだ後、ワシントン州オーカス島にあるフォレストガーデン「ブロックス・パーマカルチャー・ホームステッド」の研修生として2年間を過ごした。ここでは食べ物、水、エネルギーのことなど、暮らしにまつわることは何でも学ぶことができた。とにかく自由で、創造的で、まるで楽園のよう。なんてったってそこらじゅうに食べ物が実っていて、フルーツが降ってくるような場所だからね。この暮らしを実践できれば、お金に依存することなくみんながハッピーになれるじゃん。This is it. 僕の探していた豊かな世界がそこにあった。 ―パーマカルチャーによって実現する豊かな世界は、決してファンタジーなんかじゃない その頃、日本で3.11が起きた。原発事故があり、僕はこのことにどう応えるのか、自問自答した。僕も電力の恩恵を受けて生きているけれど、だからってこの問題を放置することは嫌だ。そして僕の答えは、権力が集中する都会にこそパーマカルチャーの価値を広げるべきだ、ということ。そうでなければ、この大きな問題を解決することは到底できない。そうして日本に帰国することを決めて、2011年に「東京アーバンパーマカルチャー(TUP)」を立ち上げた。屋上菜園を作ったり、空き地や河川敷に種を撒いたり、ワークショップを開いたり、メディアに取り上げてもらったりして、いい活動はできていたのだけど、だんだんと自分自身が都会のパワーに飲み込まれていくのを感じた。 いつの間にか発信することが活動の中心となっていき、パーマカルチャーを体現した生活からは遠ざかってしまっていたのだ。このままでは僕もピラミッドゲームの一部になってしまう。そうではなくて、僕自身がより健全で、自分らしい暮らしをしながら、日本だからこそできる素晴らしいパーマカルチャーの世界を作っていけばいいんじゃないか。パーマカルチャーによって実現する豊かな世界は、決してファンタジーなんかじゃない。そうやって僕が実践する世界をいろんな人に見に来てもらい、リアリティを体感してもらえたら、その波紋はあちこちに広がっていくだろう。そう考えて、2016年に千葉県いすみ市へ移住を決めた。そして、活動の場となる築150年以上の古民家のある2700坪の土地に出合い、グリーンズの鈴木菜央さんと共に、全ての命が大事にされる社会のための実験と実践の場である「パーマカルチャーと平和道場」を立ち上げた。そして実際に本当に多くの人がここへ訪れてくれるようになったのだ。 ―目指すのは、消費者から創造者になるということ 「ヒューマニティを取り戻そう」というのが、平和道場のミッションのひとつだ。それは、人間の本質に添うような文化や暮らしを取り戻していくということ。目指すのは、消費者から創造者になるということだ。僕らが今生きる世界は、何も考えなければ消費者になっていくシステムになっている。子どもの時から学校でそう教育されているからね。消費者というのは、誰かがつくったものを選ぶしかない上に、その何かを手に入れるにはお金が必要になる。今の社会ではより効率化して、より生産性をあげて、より多くのお金を得ることに価値が見出されているよね。だけど、人はその価値では幸せにはなれないんだ。いくら生産性が上がろうと余裕が増えることはないし、さらに余裕がなければ豊かな暮らしを味わうことはできないから。これが今の人類が抱えている残念なパラドックスだと思う。比べて、自然の循環というのは、人間が関わっても関わらなかったとしても勝手に生物多様性が生まれ、勝手に再生され、勝手に循環していく。このサイクルをうまく暮らしに取り入れることができれば、余裕のある時間はどんどん増え、心身もどんどん健康になって、本当に自分がやりたいこと――例えば、家族と過ごしたり、世の中に貢献したり、そういうことに費やせるハッピーなエネルギーと時間が増えていく。この暮らしの循環をデザインすることがパーマカルチャーなんだ。僕は誰もが創造者になることができると信じている。みんなそのパワーを持っているのに、それを表現する時間や心の余裕が今はないだけだ。でもさ、とにかくやってみようよ。何から始めてもいい。暮らしを変えて、意識を変えて、やがては社会を変える。誰かが始めれば勝手に広がっていくんだよ。そして循環し、ハッピーが増えていく。それが僕がワクワクする未来の世界なんだ。 ■ ソーヤー海 / 共生革命家 東京アーバンパーマカルチャー創始者。1983年東京生まれ、新潟、ハワイ、大阪、カリフォルニア育ち。カリフォルニア州立大学サンタクルーズ校で心理学専攻、有機農法を実践的に学ぶ。2004年よりサステナビリティーの研究と活動を始め、同大学で「持続可能な生活の教育法」のコースを主催、講師を務める。元東京大学大学院生。国内外でパーマカルチャー、非暴力コミュニケーション、禅/マインドフルネス、ギフトエコノミーなど、さまざまな活動を行っている。いすみ市に「パーマカルチャーと平和道場」を立ち上げ、共生社会のための実験やトレーニングの場として展開している。二児の父。。。。著書 『Urban Permaculture Guide 都会からはじまる新しい生き方のデザイン』、『みんなのちきゅうカタログ』(英語版 Our Earth Our Home)YouTube:TUPチャンネルHP:東京アーバンパーマカルチャー         パーマカルチャーと平和道場 Text&Edit...

# BACKGROUND# COMMUNITY# ORGANIC# SOFTNESS# 自分らしく生きる#SUSTAINABLE#パーマカルチャー

選択肢が広がる妊娠期、出産こそ自分らしく ー水中出産を通して感じたことー Mao Brazilさん

モデルとして活躍する傍ら、食に対する関心からケータリングサービスを始動。現在は、ヘルスケアブランド「HARVEST SPOON」を運営しながら、ローカルオーガニックとヴィーガンをコンセプトにしたジュースバー「COSMOS JUICE TOMIGAYA」を立ち上げるなど、一貫して心と身体の「well-being(ウェルビーイング)」を追求するMaoさん。そんなMaoさんは、昨年の10月にハワイ島にて水中出産し、現在一児の母でもあります。前編の今回は、自身の生い立ちからパートナーとの出会い、妊娠、そしてハワイでの水中出産について。これらの体験とMaoさん自身の向き合い方について伺いました。 ーMaoさん着用商品ー ー大阪で天真爛漫に育ったMaoさんがスポーツを通してパートナーと出会うまで 自分の子供時代を振り返ると、屋内で遊ぶより、外へ出かけて男の子と一緒になって遊ぶような活発なタイプでした。大阪で生まれ、中学時代からモデル業を始めましたが、ベースは粉もの文化の根強い大阪で、3人兄弟の長女として天真爛漫に育った女の子という感じ。一方で、小学生の時に「にがり」が健康に良いというテレビ番組を見たら、お小遣いを貯めて豆腐屋さんへにがりを買いに行ったり、両親の影響で酵素を飲むようになったり、そんな一面もありました。 20歳の時に拠点を東京に移し、モデル業を本格的にスタート。交友関係が広がっていた頃、あるランニングチームとの出会いがターニングポイントのひとつでした。自分としても身体の変化を見つめ直し何か運動をやりたいと思っていたタイミングで、走ることを始めました。そしてそのランニングチームが縁となり、もともと顔見知りだった夫との交際をスタート。それが2018年の話です。彼と出会った時、ルールや形式に囚われずに自分の好きなことを貫いている姿を見て、この人と一緒にいたら人生がもっと楽しく、自由で無限の可能性があるように感じられるだろうなって思いました。マインドやライフスタイルも同じ方向を向いていて、それから3年後の2021年に結婚したのはとても自然な流れでした。 ー2022年、ハワイでの水中出産を決断献身的、手厚くサポートしてくれるミッドワイフとの運命的な出会い そして昨年の10月に男の子をハワイ島で出産。妊娠する前から漠然と水中出産をしたいという思いがありました。水中出産は、赤ちゃんが羊水から水に出てくる時に抵抗なくスムースに出てくることや、赤ちゃんも母体もリラックスして分娩できるということを聞いて、ミッドワイフ(助産師)と家族とのプライベートな空間でより自然にお産ができることに惹かれました。夫もあっさり「いいね」と共感してくれて。 妊娠初期、身体や心の変化について振り返ると、まずは悪阻がキツかったことを思い出します。妊娠が分かってから3ヶ月くらいは何もできず寝たきり。眠いし辛いしでずっと家にいて、卵やお肉を身体が拒絶するようになり食べられる物もフルーツだけでした。同時に添加物の入った食べ物に反応するようにもなってしまい、そういったものを摂った翌日は1日寝込んでしまうこともありました。大変な中でも自分の身体について気づきや発見のある3ヶ月間でしたね。 悪阻が少し楽になってからは産む場所とあわせて、出産を全面的に手助けしてくれるミッドワイフ探しを開始。夫の名前「LONO(ロノ)」はハワイにルーツがあり、平和の神様の名前と同じなんです。子供も彼の名前を継ぐので、それならハワイで出産をして縁を紡ぐのもいいなって。ちょうど同時期にハワイ島で住む場所を貸してくださる方と出会えたこともあり、引き寄せられるように話が進みました。  出産予定月の3ヶ月前にあたる7月に、生活する環境の下見と、ミッドワイフとの顔合わせを兼ねてハワイ島を訪れました。私たち夫婦は共にこの時が初めてのハワイ島だったのですが、ミッドワイフとの出会いは特に印象的でした。 彼女にぎゅーっと強くて温かいハグをしてもらい、一気に信頼感が増しました。そして彼女の妊婦さんと出産に対する愛情深さ。どんなことでも細かくメモを取ってくれたり、パーソナルに接してくれる姿勢も誠実に感じました。実はその時お腹の子が逆子だったんです。でも「全然問題ない。命が生まれる時は生まれるから。」と言ってくれたこの人なら、大丈夫だって確信したのを覚えています。 そして一旦帰国して再度9月にハワイ島へ渡りました。ミッドワイフには日本からも赤ちゃんの状態を伝えていましたが、ハワイ島へ行ってから出産までは週1回、2時間くらいいろんな話をしてくれました。場所は家だったり、彼女のオフィスだったり、ビーチや行きつけのカフェだったり。そこで普通の会話をしながら、生まれてくる赤ちゃんの状態や母体の話、実際に陣痛が来た時やその後どうなるかなども、夫を交えて分かりやすく話してくれました。その時間があったことで、ママだけが頑張って産むのが出産という感覚ではなくなっていけたのはとてもよかったです。あとはハーバリストでもある彼女お手製のプレグナンシーティー(ハーブは主に自家製のもの)やバーム、エッセンシャルオイルを使ってケアしてくれていたのもとても心地よくて。産後は、赤ちゃんに対しても同じようにケアしてくれました。 ー出産目前には、イルカと一緒に泳ぐハッピーな体験も 予定日の1週間ほど前、もういつ生まれてもおかしくないということで、自宅のリビングにプールを準備していました。そんな状況の中、やりたいことの一つだった、妊娠中にイルカと泳ぎたいという想いを抱えていました。妊娠しているとイルカが寄ってきてくれるという話を聞いたことがあったからです。それをミッドワイフに話すと「○○なら、イルカと泳げると思う」と教えてくれて、早速その場所へ行ってみたんです。時刻は早朝5時ごろ、ビーチへ行くと遠く沖の方にイルカたちがジャンプしているのが見えて。そこにはマイクさんというおじいさんが1人いて、私を見て「妊婦さんだ!」と喜んでいて(笑)。彼が「今日は、ドルフィンベイビーが見れるかも!」ってどんどん沖まで泳いでいくので、夫と私も着いて行ったんです。そしたら子供のイルカも含めて40頭くらい、たくさんのイルカが私たちの近くまで来てくれて。そうなると鳴き声も歌っているように聞こえるんですよ。まるで祝福されているかのようで、とてもハッピーなひと時でした。 ーとても穏やかな水中出産と、不便だからこそよかったハワイ島での日々 予定日の朝、生理痛のようなお腹の痛みを経て陣痛が来て、その日の夜に息子を出産しました。陣痛が1分間隔になってからミッドワイフが来てくれたのですが、部屋では夫がこの日のために作ってくれたプレイリストがずっと流れていました。私はというと、ずっと裸でうろうろしていました。辛くなったらシャワーで腰を温めたり、楽な姿勢で寝転んだり、太陽の光を浴びたり。その間、栄養補給のために夫やミッドワイフがフルーツを切ってくれたり、ココナッツウォーターを飲ませてくれたり、一番落ち着く空間で家族とリラックスして過ごしながらその時を迎えました。 生まれる時は、プールの水中に自分で腰を落として、私が自分の手で子供を水の中から引き上げました。胎盤が出てからもすぐにへその緒を切らず、1時間ほど初乳を飲ませながらベッドで横たわって過ごしました。へその緒はその後、夫とミッドワイフがろうそくの火で切ってくれて、その炎を私が吹き消して「ハッピーバースデー!」となる。やっと会えたという感慨深さ、赤ちゃんの柔らかさに驚き、終始感動しながら、たくさんの感情が込み上げて来ましたね。 (写真)へその緒をロウソクで切る瞬間 胎盤は、母体と赤ちゃん両方の身体と心に有効な栄養があるそうで、後にミッドワイフがラボに持ち込みサプリにしてくれました。産後もミッドワイフは頻繁に検診に来てくれて、食材や日用品の買出しや私と赤ちゃんの心身のケアなど、常にサポートしてくれて家族のように過ごせたのは心強かったです。 その他にもいろいろと振り返ってみると、産後ハワイ島で過ごした3ヶ月間は本当に貴重な時間でした。家族だけで大自然の中で子育てに向き合って過ごせたのもとてもよかったです。便利なものはなく、買い物もローカルのスーパーで手に入る限られたものだけ。ただ、外へ出かければ人々が優しくて、地元コミュニティーから分け与えてもらうご飯は温かい。そんな環境がストレスフリーで過ごせた理由の一つだと思っています。 (写真:左から)ミッドワイフがブレンドしてくれたハーブティーと瓶詰めされた胎盤サプリ、イルカと泳ぐ際に導いてくれたマイクさんからもらったイルカのクリスタル、ハーブオイル屋さんが「パートナーにお腹に話しかけてもらいながら塗ってもらってね」と言って突然くれたというオイル。全てハワイでの思い出や時間が凝縮されたMaoさんのお守り。 ー帰国した今、考える子供との未来や命の迎え方について 帰国後はジュースバー「COSMOS JUICE TOMIGAYA」の立ち上げ準備などで忙しく過ごしていて、気づけばもうすぐ息子が1歳になります。今の時点で子供に対して、ああしたい、こうしたいという具体的なことはありませんが、小さなうちから自然と触れさせたいと思っています。そして息子が生まれたハワイ島とのつながりも親として大切にしていきたい。私が水中出産を選択したのは、できるだけ自由でナチュラルな形で、出産までの過程も含めてより自分が責任を持てる形で子どもを産みたかったというのがあります。息子には、いつか出産に立ち合いサポートしていく側になるかもしれないことを考えると、命が生まれることの深さやそれが奇跡であることをちゃんと感じられる人になって欲しいなとも思います。 そして産前から産後まで、ずっと見守っていてくれたミッドワイフが私に対して、アドバイスやサポートをしながらも、絶対に何かを決めつけたり、誘導したり、こうすべきとは言わなかったんです。あくまで私自身が道筋を作って、私がやりたいようにやってくれた。日本ではまだまだポピュラーではない水中出産や自宅出産ですが、妊娠・出産・子育てに関する考え方や選択肢、どうしたいかは人それぞれであり、自分自身で選べるんです。私自身がとても奇跡的でいい時間を過ごせたので、そんな方法もあるということはをいろんな人に知って欲しいなと思います。 ■ Mao...

# BACKGROUND# HEALTH# 自分らしく生きる#ライフステージ

私らしくあるための居場所づくり / 灰色ハイジさん

サンフランシスコで家族と暮らすデジタルプロダクトデザイナーの灰色ハイジさんには、周囲になじめずひきこもりになった中学生時代があります。そして、当時のハイジさんが自分の居場所を見出したのはインターネットの世界でした。その経験がデザイナーとしての今の自分につながったという彼女の半生には、自分らしい居場所づくりのヒントがありました。 ーインターネットを通じて見つけた”私の居場所“ 私の故郷は、新潟県の小さな村です。小学生の頃からなんとなく周囲と馴染めないなという感覚はあったのですが、だからといってそれが苦なわけでもありませんでした。漫画が大好きで、ファンタジーの世界に夢中だったんです。小学校を卒業すると、片道一時間半かかる県内の中高一貫の女子校に進学しました。すると、学校は都会的な雰囲気で溢れていて、周りの子たちはブランドの話なんかをしているんですね。村で育った私には、すごくカルチャーギャップでした。初めて触れる世界に戸惑い、数日欠席したらなんだか行きづらくなってしまって。そのまま不登校になり、丸2年半ほどひきこもりの生活が続きました。 そんな私を見かねたのか、ある日、父親が自分の友人の家に私を連れて行き、そこでインターネットというものを見せてくれたんです。ちょうど一般家庭にもネットが普及し始めた2000年頃のことでした。チャットの画面をバンと見せられて「これを使えば、日本全国の人と話せるんだぞ」と。それからまもなくして自宅にもネット回線が通ると、どんどんインターネットの世界にのめり込んでいきました。ネットの中だと趣味の合う人に会える確率が高かったし、彼らと自分の好きな話ができるというのがすごく楽しくて。それに自分のペースでタイピングできるテキスト会話というコミュニケーションにも心地良さを感じました。気づけば日本全国の人とチャットを通じてコミュニケーションを取り、たくさんの友達ができていました。 ひきこもりという一方で、中2の頃にはオフ会に参加するために一人で東京へ出かけるほどのバイタリティを持つ側面も持ちあせていました。ひきこもりとはいえ、一人きりでいたいとか、世間全体から隠れたいということではなかったんですね。村や中学校の中に居場所を見つけることはできなかったけれど、ネットのような全く違うコミュニティに触れたら心地の良い場所と出合うことができたんです。子どもが自分の力で住む場所や環境を変えることは難しいですよね。でも、インターネットの世界では自分が物理的に置かれている場所や環境に依存することなく別のコミュニティにつながることができます。子どもの私にとって、違う世界を見せてくれるインターネットとの出合いはとても大きいものでしたし、高校に入ってまた環境が変わると、学校へも行けるようになりました。 ー14歳の私の “好き”が仕事になるまで 中学生でチャットに熱中する一方で、クリスマスに買ってもらったペンタブレットで絵を描くことも好きでした。描いた絵はネットで公開していたのですが、次第に自分の絵だけではなく、他の人たちからも絵を募集し、イラスト展覧会を企画して運営することも始めていました。今思うと、当時から広い意味でデザインという行為をしていたなと思うのですが、その頃からこういうことを仕事にしたいな、デザイナーっていいなと漠然と思い描いていました。「灰色ハイジ」というハンドルネームをつけたのもこの頃です。新潟の雪って白じゃないんですよ。日本海側の冬は空も地面も全部灰色。だから灰色というのは、私が見ていた景色の色なんです。それでかわいい名前をつけたいなといろいろ組み合わせてみて良かったのが「灰色ハイジ」。14歳のときにつけたその名前を今もずっと使い続けています。 (写真)ハイジさんが住んでいるサンフランシスコの空も、取材日は霧がかっていて灰色に。 高校卒業後は京都造形芸術大学(現 京都芸術大学)に進学し、その後東京でウェブデザイナーとして就職しました。それからいくつかの転職を経て、今はアメリカの会社でブランド&プロダクトデザイナーとしてアプリなどデジタルプロダクトのデザインをしています。アメリカに引っ越したのは結婚がきっかけです。その頃私は日本で転職したばかり、彼はサンフランシスコで働いていたので、自然と遠距離結婚になりました。そもそも日本とアメリカで離れている状態でリレーションシップが始まったので、離れて住むことに抵抗はありませんでした。お互いに好きな仕事ややりたいことをできるのはいいよねという感じで。ところが、1年半ほど経った頃、彼ともう少し一緒にいたいという気持ちが強くなってきたんです。それで移住を決めました。 (写真)2020年に出版されたハイジさんの書籍「デザイナーの英語帳」。日本語版と韓国語版 移住後に娘が生まれ、今は家族3人暮らしになりました。私も夫もリモートワークで自宅を職場にしているのですが、週に1回、子どもをデイケアに預けている間に一緒にランチやお茶をしながらチェックインする時間を作っていて、今週はお互いどんな家事をしたのか、今何が大変でどれぐらい辛いのか、みたいなことをシェアしています。この時間は子どものことではなく、夫婦のことにフォーカスしています。長く一緒にいればいるほど、「こう思ってるんだろうな」とか「言わなくても分かるでしょ」となりがちですが、あえて口に出すことってすごく大事だと思うんです。夫婦関係ってどうしても波があって、良い時もあれば険悪な時もある。でも、私たちにとっては状況や感情をシェアできる関係にしておくことが、夫婦関係を良好に保つ秘訣になっているのだと思います。 子育ては楽しいですが、自分の時間が欲しいと思ったときに仕事の存在は欠かせません。もともと好きなことを仕事にしているので本当に楽しいんです。一方で、最近は趣味が欲しいなと思っていて。育児と仕事の両立がうまくいかないと、心がすさんでしまうことがあるじゃないですか。だから第三の何かがあることで、もしかしたら生活のバランスがより良くなるかもしれないって。どんな趣味でもいいのですが、逆にどんなことを選んでもデザインとつながっていく気がするんです。どこまでいっても最後はデザインのことが頭に浮かぶんですね。中学生でデザインというものに出合い、そこからずっと一筋。最近、もし今の職業じゃなかったら何をするかなと考えてみたのですが、全く想像がつきませんでした。早くから好きなことに出合い、迷いなく突き進んでこれたのはラッキーだったなと思います。紆余曲折の中で自分の居場所を模索し続けたからこそなのかもしれません。 ■ 灰色ハイジ / デジタルプロダクトデザイナー 新潟県出身。サンフランシスコ在住。プロダクトスタジオ All Turtles のブランド&プロダクトデザイナー。著書に『デザイナーの英語帳』(ビー・エヌ・エヌ新社)がある。現在、ニュースレター版のデザイナーの英語帳も配信中。HP: デザイナーの英語帳 (https://eigo.substack.com/)Instagram: @haiji505 Text&Edit : Nao KatagiriInterview&Direction:cumi

# COMMUNITY# 自分らしく生きる

更年期に取り入れたい植物療法「フラワーエッセンス」

誰しもが通るライフステージでありながら、これまであまりオープンに語られてこなかったメノポーズ(更年期)のこと。健やかに更年期を乗り越えるには、正しい知識や心構えを身につけておくことが大切です。今回は、ご自身もメノポーズと向き合っている最中だというコミュニティハーバリストのPai Miyuki Hiraiさんに、メノポーズとの付き合い方、そして症状を和らげてくれるフラワーエッセンスについてお話ししていただきました。 SISIFILLEとは…  わたしたち「SISIFILLE(シシフィーユ)」はオーガニックコットンを世界各地の産地から直接仕入れており、どこの畑でどのように育ったか明らかなコットンのみをつかって、アンダーウェアや生理用ナプキンなどをつくっています。 オーガニックコットンの「やわらかさ」は、単なる触感超えた、人々が必要とする新しい価値であると、私たちは考えています。  このインタビューでは、オーガニックコットンと同じように「やわらかい」、人やものの関係、生き方をを実践する方々にその思いを伺います。 ―フラワーエッセンスを通じて自然とコネクトする メノポーズは「ゆらぎ期」とも言われるように、女性ホルモンのバランスが崩れることで敏感になったり、不安定になったりと心身のバランスを崩しやすい時期です。不安定さを感じる時は、自然とつながることで心身のバランスを整える「グラウンディング」が有効。山に入ったり、土に触れたり、植物と話したり、自然とコネクトすることで人間本来の力を取り戻すことができます。そして、自分も自然の一部であることを感じることで、今起きている変化を素直に受け入れることができるかもしれません。また、今自分はどんな状態にあるかなと観察したり、心の声に耳を傾けたりすることも大切です。更年期症状の代名詞であるホットフラッシュはイライラしている時に出やすくなるなど、更年期の症状は精神状態と密接に関わっています。 更年期のイライラや不安を緩和させるケアとしてオススメなのが、フラワーエッセンス。フラワーエッセンスとは植物が持つエネルギーを水に転写したもの。植物のエネルギーを利用して精神や心に働きかけてくれるフラワーエッセンスはメノポーズととても相性が良く、また手軽に自然とつながれるツールでもあります。 私がフラワーエッセンスを作るときは、水を入れたグラスを持ってコネクトしたいと感じたお花の側に座って目を瞑り、30分から1時間ほどかけてお花からのメッセージを受けとります。植物の有効成分を抽出させるティンクチャー(チンキ)とは違い、媒介者(作る人)を通じて植物から受け取ったメッセージが転写されるのです。そう聞くと、スピリチュアルだとか、なんだかあやしいと感じる人もいるでしょう。もし肯定的に受け取ることができないのであれば、今のあなたはフラワーエッセンスを必要としていないということ。無理強いする必要はなく、必要だと感じるタイミングに取り入れてほしいなと思います。 (写真右から)Dessert Alchemyのオレゴングレープ、Mighty Thoughtful Medicineのレッドウッド、ALASKAN essencesのジェダイトジェイド(全てPaiさん私物のフラワーエッセンス) ―メノポーズに取り入れたいPaiさんオススメのフラワーエッセンス -オレゴングレープ 恐怖心や不安感などからリリースし、バリアを解いて自分や人を信じることを思い出させてくれる。ホルモンのバランスを保ち、女性性を取り戻すサポートをしてくれる。 -レッドウッドグラウディングするのを助けてくれる。 -ジェダイトジェイド平和・バランスを保ち、イライラしたり、揉め事やトラブルなどに巻き込まれたときに乗り越えるのを助けてくれる。現状を受け入れ、本当の自分の良さを引き出す。 -フラワーエッセンスの取り方-1日3〜4回、1回に3〜4滴を目安に、直接口に滴らすか、飲み水などに入れて摂ります。1ヶ月を目安に続けてみてください。  ―更年期とポジティブに付き合うには メノポーズという言葉を聞いてみなさんはどんな印象を持つでしょうか? 世の中には、歳を重ねることをネガティブに捉える人は少なくありません。そのせいか、更年期に起きる心身の変化を受け入れることができない人も多いように感じます。例えば、閉経を迎え、「女性性が失われるのでは」と不安になる人もいるかもしれません。私は自分自身のペリメノポーズ(プレ更年期)からメノポーズを通して、女性性の終わりではなく、むしろ「ここからが新しいはじまりだ」と感じました。社会的な立場として定義付けられた“女”や“男”ではない、ジェンダーを超えた存在に近づくような感覚。それはもしかすると人間の一番美しい形なのかもしれないと思ったんです。 更年期は誰にでも訪れるものなのに、世の中では“隠すべきもの”として扱う風潮がまだまだあります。一方、私の住むサンフランシスコのベイエリアでは、「もっとオープンに話をしようよ」という空気感がどんどん広がってきています。私が参加している40~50歳の女性が集うコミュニティでは、月に1度集まってお互いの状況をシェアしていて、そこでは自分自身や家族、暮らしのことなど何でも話をします。アメリカでは自分の考えていることを人前で話す機会がたくさんありますが、私は日本で育ちそういう環境に慣れていなかったこともあり、最初は個人的な話をすることに戸惑いがありました。でも、いざ心の声を口にしてみると、その行為自体がヒーリングにつながるということに気づいたんです。 メノポーズのことも決して不幸自慢ではなく「私は今こうなの」とオープンに話したり、また他の人たちの話を聞いて「私だけじゃないんだ」と力をもらったり。私がメノポーズやエイジングをポジティブに受け入れることができたのは、そういう場所があったからこそ。更年期に限らず生理や性の悩みもそうですが、女性が心を閉ざさずにもっとオープンになっていくには、安心して話をすることができる人たちがいて、お互いに助け合っていけるコミュニティが必要です。そしてそういう場が増えていくことは、女性が前に出ることや意見を言うことを嫌うこれまでの封建的な社会をも変える力になると信じています。 ■ Pai Miyuki Hirai /...

# COMMUNITY# HEALTH# 自分らしく生きる

優しさの連鎖が叶えるポジティブな循環 / 木津明子さん

自身のライフステージの変化をきっかけに、こどもの未来を明るく照らすようなコミュニティーを作りたいと一念発起し、地元である横浜市に「こども食堂 レインボー」をオープンしたスタイリストの木津さん。仕事に育児に、こども食堂の運営にと忙しい日々を送りながらも、彼女の周りはいつも明るくてハッピーなムードで溢れている。そんな木津さんが思い描く地域を巻き込んだ新しい取り組みと、そこで生まれたポジティブな循環の可能性について話をお聞きました。 ー「自分の不安=世の中の不安」と思ったことが行動の始まり --「こども食堂レインボー」を始めたのは、木津さんがシングルマザーになったことがきっかけだとお聞きしました。 木津:はい。区役所で児童手当など子ども関連の説明を受けたとき、なんとなく分かってはいたんですけど、改めてひとり親の過酷な状況を知ってショックを受けたんです。子どものためにも仕事は頑張りたいけれども、頑張るほど負担が大きくなるのが現実なんですよね。あまりにもびっくりし過ぎて「本当にみなさんそれでやっているんですか……!? 」と聞き返してしまったほどです(笑)。それで、その帰り道に「なにか自分にできることはないかな」と思って、こども食堂(※)をやることを決意しました。 ※こども食堂とは、子どもやその保護者、地域の住民に対して無料または低価格で栄養のある食事や温かな団欒の場を提供するために生まれた社会活動。 --自分の生活に不安を感じたタイミングで、逆に視野が広がったという部分が興味深いです。 木津:その時に自分が感じた不安から、子ども達の未来、日々の食事など、今までずっと気になっていたことに向き合う時が来たんだなと思いました。周りからの影響も大きかったですね。今はレギュラースタッフとしてこども食堂の活動を支えてくれているメンバーの話なんですけど、「+IPPO PROJECT」(※)という活動をやっている友達がいて。私はそのプロジェクトの「一歩踏み出す」という姿勢にすごく感化されたんです。昔の自分は怖かったり、悲しかったりするニュースがあると、つい目を逸らしたくなってしまうようなところがあったんですよね。でも「ちゃんと自分の目で見て、進んで行かないといけないよね」と改めて思わせてもらったし、背中を押してもらいました。  ※ファッション業界をベースに活動する女性3人が始めたプロジェクト。児童養護施設などを巣立った人たちのその後を支えるアフターケア相談所と手をとり合い、ファッションの持つポジティブな力をもとに、さまざまな形で社会問題につなげる活動をする。  --様々な選択がある中で、こども食堂を選んだ理由はありますか?木津:私自身、元々料理をしたら多めに作って「食べに来る?」と周りの人に声をかけるようなタイプで。今でも近所に住む両親にはよくご飯を作って持って行きます。私の母はすごく褒め上手で「あっこ(木津)は仕事もこんなに頑張っているのにちゃんと育児もして、ご飯まで作って偉過ぎる〜!」とか、こっちが嬉しくなる言葉をかけてくれるんですよ(笑)。料理も好きだし、人に喜んでもらえるのも好きなので、自然とたどりついた形なのかなと思います。 --ゼロの状態からこども食堂をオープンするまでにはいろいろとあったと思いますが、どのように体制を整えていったのか教えてください。 木津:場所が決まってからは色々と早かったです。私はあまり建設的に物事を考えるタイプではないので、周りの人に助けてもらいつつ、準備を進めていきました。とにかく初めてのことだらけだったので、まずは体当たりじゃないですけど、場所を探すところから始めました。その結果、洋光台の町の窓口「マチマド」さんにレンタルスペースを借りることになり、そこでのやり取りをきっかけに現在のスペースを紹介してくれたUR新都市機構の方ともつながることができました。そして地域ケアプラザの方もこども食堂ができるのを喜んでくれて、近隣の学校に代理で手紙を出してくださったり、いろいろサポート体制を整えてくれましたね。地域の協力体制があったのは大きかったです。あとは友人達の心強い協力に支えてもらいました。みんなそれぞれに仕事や家族のこともあるのに、事前の準備からお店の運営まで喜んで力になってくれて本当にありがたかったです。最初は「全部一人でやるぞ!」と意気込んでいたんですけど、それは到底無理な話でした。 (写真)こども食堂レインボーの様子 --準備期間とオープンしてからで心境の変化などはありましたか? 木津:実際に始めてからの方がいろいろ感じること、分かることが多かったです。初日を終えて、まずは自分の意識をガラッと変えていかないとだめだと痛感しました。最初は「救ってあげたい」という気持ちから始まったんですけど、その考え方自体が大きな間違いでした。本当に必要な人に食べに来てもらいたいという思いがあったので事前にあまりアナウンスをしていなくて、初日はお客さんが少なかったんですよね。チラシを駅前に配りに行った時に感じたことは、楽しくて明るくて、ポジティブな循環が生まれる場所づくりをしていかないと本当に届けたい子どもたちにまで届かないなということ。それに食堂と名前がついているからには活気も必要だなって。今振り返ると、その時の気づきはとても重要でしたね。そこからみんなで方向性をしっかり意識して軌道修正できたことが今のこども食堂に紐づいているんじゃないかと思います。 ー間口を広げることで、あらゆる人につながる場所を作りたい --その意識の部分についてもう少し詳しくお話していただけますか? 木津:こども食堂に対して“後ろめたい”というイメージを持つ人って多いと思うんです。ビラ配りをしている時にもそれをすごく感じました。好意的に受け取ってくれる人ほど「素敵なことですね。でも、うちは大丈夫です」って言うんですよ。「だって、困っている人が利用する場所なんでしょ?」と。そのたびに、きちんと私たちが考えるこども食堂の話をするようにしています。人からちゃんとしているように見られたい、という気持ちは私にもあるし、すごく理解できるんです。でも、ひとり親に限らず、子育てをしている人って毎日すごく大変じゃないですか。だから子どもたちだけではなく育児に関わる全ての人たちにこども食堂に来て少し楽をして笑顔になって欲しいんです。そこで心に余裕が生まれたら周りにも優しくなれるかもしれない。そうやって優しさの循環を作るきっかけになりたいんです。まずは子ども達にお腹いっぱいになって幸せになってもらうのが第一ですが、それに限らずいろんな人が普通に利用して、明るくて楽しい場所として定着していって欲しい。間口が広がることで、少しでも多くの人の気持ちを補うことができればという思いでいます。  --仕事や家庭があっての活動ということで体力面でもかなりハードかと思いますが、原動力はなんですか? 木津:体力の話だけでいったら結構ハードです(笑)。でも、なんか毎回終わった後にすごく元気になっているんですよね。これは私だけではなくスタッフ全員が共通して感じていることみたいです。とにかく終始みんながよく笑っているんですよ。子どもたちからもらうエネルギーは本当にすごくて、どんどん元気になる!慌ただしい日々ですが、みんなそれぞれ意欲的に楽しんでやっています。 --「こども食堂レインボー」はInstagramでの発信も積極的に行なっていますが、反応はどうですか? 木津:発信はできるだけこまめにしようと頑張っていて、その手応えも感じています。私たちはオンラインショップでの支援チケット販売と銀行振込を通じて支援金を集めているんですけど、「SNSで様子を見ていると何をしているか明確に分かるから、支援したくなる」というような声をもらうことが結構あります。なので、引き続き発信することも頑張っていきたいです。ただ、ファッション業界は福祉に対してまだまだ消極的なところが多いなとも感じます。だからこそ両方の立場が分かる自分ができること、ファッションと福祉という一見異なるものを組み合わせることで生み出される新しい可能性についてこれからも考えていきたいです。 --今後の目標はありますか? 木津:近い目標としてあるのは、定期賃貸できるスペースを確保することです。拠点を確保することで食べること以外のコミュニケーションの場が作れるかもしれないし、もっといろんな可能性が広がると思うんです。食事と教育が一緒にできる寺子屋のような場所にすることが理想です。あとは永く続けていきたい。でもこれらを実現するためには、何よりも安定した資金の調達が一番の課題です。急にすごく現実的な話になってしまうんですけど(笑)、これが本当に大真面目な話で! 来てくれる人、手伝ってくれる人、支援する人、みんながもっとフェアになるためにはやっぱり避けては通れない問題だと思います。以前仕事で関わるモデルさんや女優さん、ブランドさんに売上の一部を寄付して頂いたことがあるのですが、もっとこういったタッグをいろんな企業に呼びかけてやっていきたいです。 地域密着型で、こども食堂を中心に地域のコミュニティーみたいなものを作ることができたら、子供を守りながら雇用も生み出せるんじゃないかって思うんです。そんな理想的な循環を可能にするビジネスモデルを作ることができれたら、全国展開だって夢じゃないですよね。そんな未来に備えて組織も法人化しています。夢は大きく!でもまずは今できる目の前のことに向き合って、地元の洋光台で頑張りたいです。  ■ 木津明子 / スタイリスト...

# COMMUNITY# SOFTNESS# 自分らしく生きる

この地球で持続可能な暮らしをしたい ーパーマカルチャーが僕らに教えてくれたことー 木多伸明さん

岡山県で持続可能な暮らしを営んでいるノブ(木多伸明)さん、ケイさん、3歳のテラくん一家。電気は太陽光発電、ガスは引かずに自家製の炭と薪で調理、雨水をろ過して飲み水を作り、お風呂は薪で沸かし、自宅の敷地にある畑では家族が食べるに十分な野菜を育てています。彼らが実践するパーマカルチャーとは、パーマネント(永続性)、アグリカルチャー(農業)、カルチャー(文化)を組み合わせた、人と自然が共存する持続可能な社会をつくるためのデザイン手法のこと。2023年4月に公開されたばかりの映画「TERRA 〜ぼくらと地球のくらし方〜 」は、ノブさん一家が国内外のパーマカルチャー実践者を訪ねた軌跡を自ら記録したものです。パーマカルチャーの基本倫理は、アースケア(地球に配慮する)、ピープルケア(人に配慮する)、そしてフェアシェア(みんなで分かち合う)。その暮らしの先には、循環する豊かな世界が見えてきました。 SISIFILLEとは…  わたしたち「SISIFILLE(シシフィーユ)」はオーガニックコットンを世界各地の産地から直接仕入れており、どこの畑でどのように育ったか明らかなコットンのみをつかって、アンダーウェアや生理用ナプキンなどをつくっています。 オーガニックコットンの「やわらかさ」は、単なる触感超えた、人々が必要とする新しい価値であると、私たちは考えています。  このインタビューでは、オーガニックコットンと同じように「やわらかい」、人やものの関係、生き方をを実践する方々にその思いを伺います。 ー消費者から生産者へ。人生が変わるほどに魅了されたパーマカルチャーの世界 以下語り手 Nobu:ニュージーランドの北端から南端まで3000km続くトレイル “Te Araroa(テ・アラロア)” をハネムーンとして5ヶ月かけてケイと2人で歩いたのは2017年のこと。その後、ケイはニュージーランドに残り、僕は昔から憧れていたアメリカのトレイル “PCT(パシフィック・クレスト・トレイル)” へ。そして4200kmの道のりを1人で歩いていた時、ケイから「共生革命家のソーヤー海くんの “人生が変わるパーマカルチャーツアー”が近くで開催されるから歩き終わったら参加してみたら?」と連絡がきた。そもそもは彼女が行きたがっていたのだけど叶わないので、代わりに僕へ勧めたのだ。ツアーは、西海岸のパーマカルチャーの聖地と呼ばれる場所を2週間ほどかけて巡るもの。その時は正直あまり興味はなかったけれど、せっかくアメリカにいるのだから、と軽い気持ちで参加することにした。 まず訪れたのは、40年以上パーマカルチャーを実践しているワシントン州のブロックス・パーマカルチャー・ホームステッドだ。ちょうど実りの時期ということもあって、食べ物がそこら中になっていて、ナッツや薬草は生い茂り、果樹からは取りきれない実がボトボトと落ちていた。溢れんばかりの収穫物は乾燥させたり、瓶詰めにしたり、ジャムにしたりと、何でも保存食にするらしいが、それでも食べきれないという。だけど、例え欲しいという人がいても余っているフルーツは売らないと聞いて驚いた。収穫された果物を買う人はただの“消費者”にしかなりえないからだ。彼らはナーサリー(育苗園)を営んでいて、そこでは世界中の様々な種類の苗を購入することができる。苗を買い育てれば、“生産者”になることができるというのが彼らの考え。その視点に感銘を受けたし、目の前に広がる楽園のような世界を見て、「僕もこれをやりたい」と強く思った。  (動画)ブロックス・パーマカルチャー・ホームステッドで撮影されたツアー動画 ートライアンドエラーを繰り返して学んでいく開拓の日々 それまでの僕は東京に住んで、映像カメラマンとして仕事をしていた。2018年に日本へ帰ってくると、パーマカルチャーを実践するために僕らは東京を離れることにした。ケイも旅の中で循環する暮らしを営む人たちと過ごすことで、場を育みたいという気持ちが強くなっていたようだ。移住先はいくつか検討したけれど、岡山で僕の祖父母が住んでいた家が空き家になっていて、手っ取り早く始められそうだったのでここに決めた。家の前には畑があって、周囲は少し小高い丘になり雑木林に囲まれている。長年放置されたままだった土地は藪化し、竹林は暴走していた。そこからはひたすら開拓の日々。僕は子どもの頃からモノを作ることが好きだ。今も基本的に何でも自分で作るが、大体は一度失敗する。僕にはこういう暮らしの経験がないから、全てトライアンドエラーで学びながらやっていくしかない。  (写真)↑ 藪化していた頃の様子。↓現在の様子。 現代の暮らしでは自然と人間は完全に分離されていて、例えばトイレで流したものがどこへ行くのか疑問に持つ人は少ない。そういう感覚的なものが失われた暮らしに、それってどうなっているの?とか、それっておかしくない?とか、考えるきっかけを与えてくれるのがパーマカルチャーなのだと思う。汚水をきれいにしてくれるプロダクトを購入するのではなくて、その仕組みをどうやって作ろうかと考える。そして理論を実践していく。その小さな実践の積み重ねが、自然界と人間のつながりを取り戻してくれるのだ。 (写真)温室とお風呂を兼ね備えるジオデシックドーム (写真)伐採された竹で囲われたコンポストトイレ そもそも、パーマカルチャーを取り入れることは決して難しいことではない。コンポストでも、ベランダ菜園でも、できることから始めればいい。もちろん苦労はそれぞれにあるけれど、それ以上に得られるものは大きいし、実際に僕らの暮らしの豊かさはどんどん上がっている。果樹も少しずつ実りが出てきたし、僕たちの暮らしを見にくる人たちも増えてきて、僕が西海岸で受けた影響を今度は僕が人に与えられるようになってきた。僕は今、西海岸で見たあの憧れの暮らしがここ岡山でできつつあることを実感している。 (写真) 屋根の上に備えつけたタンクに、ポンプで井戸水を引き上げてシャワーが出る仕組み。 ーこの映画が、その土地のパーマカルチャーに興味のある人と実践者とをつなぐきっかけになったら 僕らのように田舎でパーマカルチャー的な豊かな暮らしを実現していたとしても、気候変動やエネルギーなどの大きい問題からは逃げることはできない、というのもこの暮らしを始めて気づいたことの一つだ。いくら目の前の風景を豊かにすることができても、僕らだけでは気候変動をどうにかすることはできない。僕が生きている間には大事にはならないかもしれないけれど、じゃあテラは?他の子どもたちはどうなる? 彼らの未来を守るために、今何かアクションを起こすべきなんじゃないかと考えていた。 そんな中、ソーヤ海くんがパーマカルチャーのことを僕に映像化してほしいと考えているという話を聞いた。僕は宅地と畑の開拓に追われてそれどころじゃなかったけれど、ちょうどテラが産まれた後でどうもケイは旅に出たそうだった。初めての子育て、さらに移住とコロナが重なり、外とのつながりが少なかったこともあって、ここでの生活に少し息苦しさを感じていたのかもしれない。それに、パーマカルチャーをより多くの人が実践してくれたら世の中を変えることができるかもしれないという思いもあった。  (写真)烏骨鶏を愛でる子どもたち ケイはDIYで作ったソーラークッカーでよくクッキーを焼いてくれるのだけど、天気がいいとテラは「今日はクッキー焼けるかなー」と言う。3歳ながら、太陽があればクッキーが焼けるんだということを彼はナチュラルに知っているのだ。もし世界中の子どもが同じように言い出したら、将来エネルギー問題は解決できるんじゃないだろうか。 この暮らしを映画にして、この世界をもっと多くの人に知ってもらいたい。ここの開拓作業を止めてしまうことはとても苦しい決断ではあったけど、やっぱりドキュメンタリー映画を撮ろうと決心した。そして家族3人でアメリカと日本各地のパーマカルチャーの実践者を巡る旅が始まった。 (写真)ソーラークッカーでクッキーが焼く様子。そしてそれをじっと待つテラくん。...

# ORGANIC# SOFTNESS# 自分らしく生きる#パーマカルチャー

自分らしく美しく ―からだの中から整える― 新井佑佳さん

自分らしく生きている人を見ると、「美しい」と感じることがあります。美しさの定義は人それぞれに自由であるものですが、“自分らしさ” とはなにかを知ったとき、自分の求める美しさに近づくことができるのかもしれません。セラピスト暦15年目を迎え、食の分野などにも活動の幅を広げられている新井佑佳さんの場合は、身体の内側を整えることがそのきっかけになったと言います。 ―自身の身体の不調から、内側を整えることの大切さを知りました 本田:新井さんは現在、都内でオーガニックサロン「ayuca organic salon」を営んでいらっしゃいますが、どのような想いがあってこのお仕事を選ばれたのですか? 新井:子どもの頃から、美容の仕事についている人は年齢に関係なくずっと美しいと思っていて、その美しさにずっと憧れていたんです。私が通っていた美容学校は、トータルビューティーを学ぶことのできる割と珍しい短期大学。ヘアカットやメイクの授業はもちろん、健康美や精神美、花道や茶道、フィットネスに心理学と幅広い分野に触れる機会がありました。そこで内側まで美しくするセラピストという職業を知ったんです。 本田:当時は身体の外側へのアプローチを目的としたサロンの方が目立っていたような記憶があるのですが、最近では身体の内側、心のケアができる場所も多いですよね。それは世間の関心が身体を中から整えることにも向けられるようになってきたからなのでしょうか? 新井:そうですね。自分がこの仕事に就いているからかもしれませんが、セラピストという言葉を当たり前に聞くようになった実感があります。リラクゼーションサロンの数も増えてきたので、外側だけでなく内側に癒しを求める人が増えているのかなと思いますね。 本田:少し前までは精神的な部分をオープンにすることに対して、ためらいを感じる方も多かったように思うんです。でも今は、いろいろな方法で自分の内側の部分をケアするみたいなことが一般的になりつつありますよね。 新井:私も元々溜め込みやすいタイプで、身体に不調があらわれてしまうことがありました。自律神経が乱れたり、円形脱毛症になったり。一番辛かったのは顔面麻痺になってしまい、薬の副作用で肌もボロボロになってしまったこと。その時に、いくら外側を美しく整えても、身体が元気で健康じゃないと、全部がダメになってしまうんだなと感じたんです。 本田:ご自身の経験が今に大きく関わっているのですね。新井さんはセラピストとして実際にお客様をケアされる時、どのようなことを大切にしていらっしゃいますか? 新井:マッサージに行った時、逆にすごく疲れて帰ってくることってありませんか? 癒しの空間すぎて陰の世界に気持ちが持っていかれてしまうというか。自分のサロンに来ていただいたお客さまには癒しを感じてほしいのはもちろんですが、また頑張ろうと元気になったり、幸せな気分になったり、いい気持ちで帰ってほしいと思っています。サロンの空間を楽しんで欲しいし、特別な空間だと思ってもらいたいので、おもてなしをするように施術することを心がけていますね。 本田:自分にフィットしたサロンかどうかということは重要ですよね。そういった場所や人に出会うことで感じ方や見える景色も変わると思います。自分自身が精神的に癒されると、周りに優しくなれたりも。 新井:そうですね。うちのサロンにはお子さんがいらっしゃるお客さまも多く、子育ても仕事もしていると、みなさんご自身の時間がなくてかなり疲れが溜まっているんです。そんな中サロンに来てくださって、施術を受けると心に余裕が生まれてハッピーになる。家に帰った時に家族にもやさしくなれるから、旦那さんも「行ってよかったね!また行ってきなよ」と言ってくれるみたいで。そういったお話を聞かせてもらうことも多く、とても嬉しく思います。 ―心が求める楽しい方へ向かっていくことが、美しさに繋がっていく 本田:新井さんは畑仕事もされていますよね。そのお話も伺いたいです。新井:以前、体調を崩しやすかった時に2年ほどマクロビオティックを学んでいた時期があって。マクロビ食を取り入れてみたところ、体調だけでなく精神的にもとても安定して驚いたんです。そこから「身土不二(しんどふじ)」とか「一物全体」っていうことばが自分の中でスッと腑に落ちて。私は群馬県の神流町(かんなまち)という、山に囲まれた町で生まれ育ったんですが、地元で父のはじめた畑を手伝うようになったんです。水と緑に恵まれた場所で一から無農薬で作って、野菜や果物の成長する過程を見て学びを受ける。続けていくうちに野菜への愛が膨らんで、月に一度は必ず帰って畑に触れています。 本田:そういった経験を通して、サロンでのお仕事に活かされていることも多いのではないでしょうか。 新井:その通りなんです。自宅ではこういう食事をとった方がいいですよということがアドバイスできるようになったのは大きいですね。より多くの人に食事の大切さや楽しさを広めたくて、田舎暮らしを体験する地元のツアーや料理教室、食に関するセミナーも開催するようになりました。 本田:サロンでは、経営から接客まですべて新井さんお一人でされているのですよね。ご自身のペースで働ける環境があるからこそ、そういった活動にも精力的に取り組めるというところがあるのでしょうか。 新井:そうですね。昨年地元のツアーを開催したときに、自分がやりたかったことが徐々に形になってきていると実感できました。勤めていたころは「次は何時にお客さまが来ちゃう!」とか「施術の時間はオーバーしちゃダメ!」など時間と周りを気にしてしまうところがありましたが、独立して一人で働くようになってからはそういった焦りがなく、お客様一人ひとりにゆっくり寄り添うことができるようになった気がします。お客様が満足して帰ってくれることが一番なので、今の環境やペースは自分に合っているなと感じています。 本田:新井さんのインスタグラムには、おすすめの調味料やおいしそうな料理の数々が並んでいて、とても興味深く拝見しています。サロンでの施術だけでなく「食」に関することも含めてホリスティックにお客さまをケアしていく方向になっていっていますよね。今後はどのようなバランスで活動されていかれるのでしょうか? 新井:基本はセラピストという軸はぶれないようにしたいと思っていますが、色々と挑戦はしていきたいですね。昨年開催した田舎暮らし体験ツアーを通して、地元での活動が仕事につながることが実感できたので、今後はもうちょっと畑に関わる活動も広げていけたらと考えています。東京のカフェに野菜を卸すとか、都内で野菜を販売するとか。そしていずれは地元の群馬と東京でデュアルライフができたらいいなと思っています。 本田:心の声に素直であることは自分をケアすることでもありますよね。そういったことが、自分の「らしさ」や「美しさ」に通じていくのかもしれませんね。 新井:たくさんの情報が溢れている中で、いろいろと試しながら「自分が一番心地良いと思うこと」を選びとっていくことも大切だと思っています。そういったことを積み重ねながら、自分らしさを磨いていくことが一番美しく輝ける秘訣なのかもしれません。これからも内側の幸せや “楽しい、嬉しい” にフォーカスしながら、お客さまや自分も含め、みんなの美しさにつなげていきたいですね。 ■ 新井佑佳 /...

# HEALTH# ORGANIC# 自分らしく生きる

自分らしく生きる働き方 / 加藤寛子さん

彼女が日本を出て海外での暮らしを始めたのは20歳の時。そこから約26年の間に様々な場所に移り、色々な職種を体験してきました。現在、「HATAGUCHI COLLECTIVE(ハタグチ・コレクティブ)」という自身のステーショナリーブランドを運営する一方で、アパレルブランドのビジュアルマーチャンダイザー(以降V M D)、スタイリスト、コディネーターと多方面で生き生きと活躍する彼女。その仕事へ向ける情熱や考え方には、『自分らしい生き方』に繋がるヒントがたくさんありました。 ー自分の性格や環境が今の私を作り上げた もともと物を観察したり研究したりする事が好きなんです。一つのものに興味を持ったらとことん突き詰めるタイプ。VMDの仕事でも、他のお店のVMDの仕事を見ながら自分なりに学んできました。またハイブランドのアパレルに勤めていた頃、そのブランドの大御所の方達に叩き込まれたジーンズの畳み方ひとつをはじめ、色々な知識や経験からは多くの学びを得る事ができました。それらは私のビジネスに対する姿勢の基礎となっています。また幼少期の環境も、今の私を作り上げた一つの要因になっていると思います。私の祖母はお茶とお花の先生をしながら暇があれば私の洋服を作ってくれ、母は刺繍がとても上手な人でした。2人とも常に手を動かしている女性でしたね。家にはいつもお花が飾られていたり、成熟したハンドメイドに触れさせてもらえる機会が多かったりした環境で育ったので、自然とハンドメイドやアパレル関係に興味を持つようになったのかもしれません。 ーサンフランコで暮らすまで今までの全てが繋がり、通じている 留学生としてサンフランシスコ・ベイエリアの短期大学へ入学した事が、アメリカに来るきっかけでした。その後バーモンド州の大学へ編入し、卒業してからはニューヨクやカリフォルニア、日本のアパレルで主にV M Dとして14年ほど働いてきました。その後夫の故郷シンガポールに住んでいた期間は、フリーランスとしてインテリアデザイン関係の仕事をしていました。その頃、旅行先のインドで出会った伝統的なハンドメイドのコットンペーパーに心惹かれ「HATAGUCHI COLLECTIVE」というステーショナリーブランドを立ち上げました。※HATAGUCHI COLLECTIVEについての記事ははこちらから そして、シンガポールで時間に余裕のある暮らしをする中で子供を授かりました。永住権があるアメリカ、在住しているシンガポール、そして私の母国日本。どこで子育てをしながら暮らすのが良いのかを夫婦で話し合い、2人ができる限り対等に、近い視野を持てるアメリカに戻って暮らす事に決めました。現在はサンフランシスコベイエリアに戻り「HATAGUCHI COLLECTIVE」を運営しつつ、バークレーにあるアパレルブランド「ERICA TANOV(エリカ・タノヴ)」でVMDとして働いています。また、スタイリストやコーディネーターとしても時々お仕事をいただいています。今まで様々な地に移り色々な職を経験し、現在もパラレルな働き方をしているので、一見バラバラな事をやっている様に見えるかもしれません。しかし、結果的にそれぞれの仕事が他の仕事に通じている部分があると実感しています。VMDでの経験があるからこそスタイリングの仕事でもそのスキルが活かせたり、ブランド運営で培った人との接し方がコーディネーターの時に役立ってくれたりと、それぞれに相乗効果をもたらしてくれています。 ー人との繋がりを大切にして働く ビジネスの上で一番大事にしている事は、一緒に働いてよかったと思ってもらえるような働きをする事です。何かご縁があるから出会えたのだと思いますし、人との繋がりは大切にしたいですね。コーディネーターの仕事でいうと、日本から来た人とアメリカで暮らす人との間に入る際には、いつも両者の立場になって考え、進めて行く事を心がけています。ビジネスの面でも文化の面でも、両者を尊重しどちらにとってもフェアな立場でありたいと思っています。そして、仕事をするという視点ではなく、人として気持ちよく時間を共にするという考え方を持つようにしています。 ー多用的に働くという自由がもたらしてくれるもの自分らしく働くという事 今は日本でも一つの企業に属するだけではなく、副業やフリーランスなど様々な働き方が認められてきていると思います。その風潮は「自分はこんな事が出来るかもしれない!」という可能性を模索するチャンスだと思うので、枠にとらわれずもっと自由に視野を広げてみると良いのではないかと思います。趣味ではじめた陶芸が仕事になった……くらいの自由さやカジュアルさは、フレキシブルな人生観を見せてくれると思います。 私は色々な事を経験して、今になってやっと「自分はプロジェクトマネジメントが得意なのだ。」と気づく事ができました。スケジュール管理の面などで大変な事はありますが、一つの事をコツコツ極めるよりも、仕事でも子育ての面でも、あらゆるプロジェクトに携わってマルチタスクをこなす方が好きです。オフィスでずっと座って働くより、現場で体を動かして働いている方が自分の性に合っていますね。またそんな自分の得意分野を活かした働きの中で、何事にも愛情を込め熱心に取り組んで行きたいと考えています。仕事が増えて外に出る機会が多くなると、子供たちや家族と過ごす時間が少なくなってしまうのが心苦しいですが、軽やかに、バランスが取れた生活ができるといいなと思います。私にとっての自分らしさとは、『好き』の部分を見失わず、自分のペースで働いて行く事なのかなって思います。 ー今できる事を見失わない事が好きに繋がる 「Stay on the same tree.(同じ木に留まりなさい。)」という言葉があります。これには、やっている事が枝分かれするのは良いけれど同じ木の上で行う方が良いというメッセージが込められています。色々と事業を広げたり関心を広げたりしても、同じ木の上であれば最終的に全てが繋がるものだと考えています。 そんな中で色々な仕事をしてきましたが、「今しか出来ない事はなんだろう。自分が本当にやりたい事はなんだろう。」と考えた時に、私の中ではやっぱりVMDの仕事が一番だったんですよね。最近ではVMDの仕事を優先して、今働いている「ERICA TANOV」では、上がってきた商品を販売するまでのあらゆるケアやオペレーションに携わっています。力尽きて外で仕事が出来なくなった時、最後まで自分が好きな事をしていたいという気持ちがあります。やっていて良かった、と思える仕事をしていたいです。そのためにも、『今できる事』を見失わずに同じ木で枝を広げ続ける事が、自ずと自分の『好き』につながって行くのだと思います。 ■ 加藤寛子 / HATAGUCHI...

# 自分らしく生きる

「自分に正直に生きる」 ー女性が心身ともに健康でいるための植物療法とセルフケア 後編ー 須藤愛子さん

自身の出産を期に心身のケアの大切さに気づき、フィトテラピースクールで学びを深めた須藤愛子さん。女性が健康であるためのサポートをしたいと、2022年には「The Little Sunshine(ザ・リトル・サンシャイン)」を立ち上げ、フィトテラピスト(植物療法士)としての活動をスタートさせた須藤さんに、植物療法のこと、生理期の過ごし方やデリケートゾーンケアについてお話いただきました。 ―膣に潤いを保つことが免疫力アップにつながる  膣は女性にとって一番大事な場所です。デリケートゾーンと呼ばれる膣、尿道、肛門などはそれぞれ粘膜で覆われていて粘液を出しています。粘膜に潤いがなくなると粘液が出にくくなり、体内に侵入しようとする細菌やウイルスなどの病原体を中に入れないようにブロックしたり、異物を体外に排出したりすることが出来なくなってしまう。さらに、膣の乾燥が続くと、たるんだり萎縮したり、菌が繁殖したり、老化が進んだりと様々なトラブルを引き起こします。つまり、粘膜の潤いを保つことは免疫力アップにもつながるんです。これは私が体感してびっくりしたことでもあるのですが、膣が潤っていれば、不思議と鼻や目など身体の他の粘膜の乾燥も和らいでくるんです。 ―最高のアンチエイジングをもたらしてくれる膣周りのケア 日本人って、顔はきちんと専用のソープや化粧水などでお手入れをするのに、膣周りのケアをするという意識がないですよね。でも自分の膣に触れることは、自分の身体を知ることなんです。いつまでも粘液を分泌できるような、潤っていて弾力がある膣を維持することは最高のアンチエイジングとも言われています。膣のケアが女性の健康につながっていくということを実感しているので、若いときから第二の顔としてケアすることが当たり前になっていってほしいですね。 ―粘膜と馴染みのよい植物オイルでデリケートゾーンケアを アプリコットカーネルオイル、スイートアーモンド、マカダミアナッツオイルなど、実のなる種から抽出された植物オイルは粘膜との馴染みがよくおすすめです。ベタベタするのが苦手だったら乳液のようなミルクタイプのものでもいいと思います。最近「フェムケア」の流行りもあってかいろいろな製品が販売されていますが、粘膜は吸収率がものすごく高いので、天然由来のものを選びたいですね。 ―どんなふうにお手入れするの? デリケートゾーン専用のナチュラルなソープで擦らないように指の腹で優しく洗います。ソープはよく泡立てるかまたは泡タイプのものを使ってください。外陰部のひだには恥垢という垢が溜まりやすいので、ひだの部分も優しく洗います。シャワーで流しタオルで優しく水分を拭き取った後、専用のオイルやミルクなどを膣の粘膜部分から肛門部分まで優しく塗布し、馴染ませながら軽くマッサージします。 (写真)泡タイプで使いやすいデリケートゾーン用のフェミニンシフォンソープ / Pubicare organic。/ デリケートゾーン用のオイル / The Little Sunshine。(全て私物) ―身体が冷える季節には膣のオイルパックを試してみて 冬は、膣や会陰も冷えがちです。そんな時は人肌に温めた植物オイルでヒタヒタにしたコットンを生理用のオーガニックコットンナプキンの上に置いて膣にあてると、膣が潤い、温まるのですごく気持ちがいいんです。オイルパックをしながらそのまま就寝するとぐっすり眠れるのでぜひやってみてください。 ―女性が健康でいることで、明るい社会に須藤さんが世の女性に伝えていきたいこととは? まずは自分の心と身体を大事にして、しんどいときは無理をせず休んでほしい。自己中心的になれということではなくて、自分に正直に生きてほしいですね。女性が心身ともに健康でいることで、パートナーや子ども、周りのみんなが笑顔で元気になれるし、そのエネルギーをみんなが外に持っていけばそれがまた伝染していく。その連鎖が続いていけば、最終的にはとてもいい社会になるんじゃないかなと。女性にはそういう力があると思うんです。 ■ 須藤愛子 / フィトテラピスト・Bonnie &Moss ディレクター 自身の出産を期に心身のケアの大切さに気付き、フィトテラピースクールで学びを深める。2022年に「The  Little Sunshine」を立ち上げ、今後は植物療法士として個人向けホリスティックカウンセリングやフェムケア講座、企業向けセミナーを開催していく予定。そして親子が笑顔になれる場所、コミュニティーを作りたいという思いから2021年よりグラフィックデザイナーの友人と2人で「Bonnie&Moss」というユニットとして活動をはじめる。毎月三軒茶屋にて親子Work Shopを開催。instagram: @sol__luna...

# HEALTH# PERIOD# フェムテック# 自分らしく生きる

「自分に正直に生きる」ー女性が心身ともに健康でいるための植物療法とセルフケア 前編ー 須藤愛子さん

自身の出産を期に心身のケアの大切さに気づき、フィトテラピースクールで学びを深めた須藤愛子さん。女性が健康であるためのサポートをしたいと、2022年には「The Little Sunshine」を立ち上げ、フィトテラピスト(植物療法士)としての活動をスタートさせた須藤さんに、植物療法のこと、生理期の過ごし方やデリケートゾーンケアについてお話いただきました。 ―植物療法を日々の暮らしに気軽に取り入れるには?まずは自分の身体を観察してみよう 植物療法とは、植物の力を使って人間が生まれながらに持っている自然治癒力に働きかけ、心身のバランスの乱れを整え、健康な状態へと近づける伝統的な療法です。具体的には、その人の不調の原因を探り、ハーブを飲んだり、薬効がある食材を食べたり、精油などを使ったりしながら、その症状を癒していきます。  植物療法を日常に取り入れるためのファーストステップは、自分の身体を深く観察すること。それは自分の内面と向き合う時間を作ることでもあります。我慢を美徳とする日本特有の古い考えがあるせいか、日本人女性は頑張りすぎている人が多いですよね。特に子育て中のお母さんは自分のケアが後回しになりがちです。調子が悪くても身体の声を無視して頑張り続けた結果、病気を招いてしまうケースもよくあることです。大事なのは、自分を俯瞰して観察し、身体が出すサインをキャッチすること。そうすることで、ケアすべきタイミングやポイントが分かるようになってきます。 (写真)須藤さんが植物療法と出合うきっかけになった書籍、東城百合子さんの「自然療法」。フェムケアのことが知りたい方には森田敦子さんの「潤うからだ」がおすすめ。(共に須藤さん私物) ―ちょっとした身体の変化に気づくことで症状が現れる前のケアが可能に 前回の生理よりお腹が痛くなるのが二日ぐらい早いなとか、なんとなく喉がイガイガするなとか。頭痛などの症状が出てから鎮痛剤を飲むというような対症療法とは違い、植物療法というのは、症状が出る前からケアができるもの。なので、ちょっとした身体の変化に気づくことが大切なんです。日本人は体調を崩すとすぐに病院へ行く人が多いですが、植物療法が根付いているヨーロッパでは、不調を感じたらハーブ薬局へ行き、植物療法士に相談してハーブを処方してもらうなど、まずは自分自身でケアしてみて、それでもだめだったら病院に行くそうです。化学的な医薬と比べると植物の効き目は穏やかなので、例えば、生理の一週間前からPMSをやわらげるハーブを取り入れるといったように早めに対処することで効果が生まれやすくなります。 ―生理期を快適に過ごすために植物の力でセルフケアを 基本は、身体を冷やさないこと。使い捨てのカイロでもいいのですが、私が愛用しているのは、電子レンジで温めて使用するチェリーの種が詰まったチェリーストーンピロー。チェリーの種は中が空洞になっているので、そこに温かい空気が溜まって保温効果があるんです。特に仙骨周辺を温めると血流が良くなり、生理痛を和らげてくれます。他にも、好きな精油を焚いたり、スケジュールを詰めすぎないようにしたりなど、生理期間はできるだけリラックスして過ごすことを心がけてみてください。 (写真)お腹や腰、肩にも乗せて使えるおすすめのチェリーストーンピロー / INATURA。須藤さんが生理時だけでなく毎日摂取しているというピースミント“ENERGY”CBD &CBG +レモンとピースミント“RELAX”CBD+ペパーミント / 共にNUMUN NATURALS(全て須藤さん私物)。 ―生理期に摂りたい栄養素どんなものがいい? 鉄分は生理前からどんどん失われていくので、意識的に摂りたいですね。また、PMSや生理痛にも効果的なγ-リノレン酸。必須脂肪酸の一つで、月見草オイル、ボリジオイル、ヘンプシードオイルなどに含まれています。更年期症状などの緩和にも良いとされているので、サラダにオイルをかけて食べるなど、生理期に限らず日頃から摂取できるといいと思います。 (写真・左から)ホルモンバランスにフォーカスしたオリジナルブレンドハーブティー / The Little Sunshine。オイルカプセル 月見草油、毎日夕方に摂取するのがおすすめと言うオイルカプセル ボリジ油、PMSで気分が沈んだ時に良いというタンチュメール メリッサ / 全てCosme...

# PERIOD# フェムテック# 自分らしく生きる

会員登録で初回10%オフ。クーポンコード [ WELCOME10 ]

以下の商品がカートに入っています

No more products available for purchase

カートに商品がありません。